第52話

「確かに……あいつは底なしにお人好しで、優しいです」


 痛む腹を両腕で抱えるようにしながら、章一はゆっくりと顔を上げた。


「だから、別に不意なんか突かなくったって……。例えば、俺が泣き落としの一つでもしちまえば、あいつはころっとだまされてくれる。簡単に、ここまで連れてくる事もできます……」

「うはっ、マジで?」


 社長は、章一の言葉に前のめりになり、さらに笑った。


「じゃあ、そうしろよ。こっちはこっちで準備しておくから。持つべきものは、頭が足りなくても体つきのいい嫁さんだよな?」

「……」

「あの女、きっと風呂でも撮影でもぼろ儲け間違いなしだ。柏木、これでお前の借金もチャラに」

「……だが、断る」

「あ? 何か言ったか?」

「……お断りだって言ったんだよ、このクソガキ!!」


 何年にも渡ってたまってきたフラストレーションが、一気に爆発した瞬間だった。友人だと思っていた相手からだまされた事。謂れのない多額の借金を背負わされた事。ひと回り近くも年下の若造にこれまで言われるがまま従ってきた事。そして、あれほど恋焦がれて添い遂げる事のできたこの世でたった一人の愛する人に、決して償い切れる事などできない苦痛を与え続けてきた己の業の深さが、章一の全身に力を与えた。


 気が付けば、章一の右手のこぶしが社長の顔面に深く食い込んでいた。メキィッと指の骨が軋んで折れた音が聞こえたような気がしたが、それでも社長の前歯が二本ほど折れて吹き飛んだのを目にすれば、そんな事など些細なもののように思えて、章一の口元はふっと弧を描いた。


 やった、やってやったぞ小百合。最初からこうすればよかったんだよな。お前を殴るんじゃなくて、最初からこいつにしておけばよかったんだ。そうしたら、きっと今頃……。


 この続きを、章一は心の中で紡ぐ事はできなかった。社長に二発目のこぶしを叩き付けてやるよりもずっと早く、壁際に立っていた何人もの部下達が一斉に章一へと襲いかかってきたのだから。


「てめえ、社長に何て事しやがる!?」

「自殺願望があるなら、望み通りにしてやるよ! 生命保険には入ってるのか、コラァ!!」

「内臓全部抉り出して、その後は魚のエサにしてやるからな!!」


 部下達に再び床へと転がされ、全身くまなく殴られたり蹴られたりする中、章一は小百合との幸せな日々に思いを馳せる。そして、柄にもなく神に祈った。


 お願いします、神様。もし、こんなクズな俺でも許してくれて、また人間に生まれ変わらせてくれたなら、今度こそ小百合と……。


 その時だった。


「たった一人に、何人もよってたかって殴るわ蹴るわ……。本当にここは膿の温床でしかねえなあ!!」


 バァン!! とドアが乱暴に開かれる音と共に、くぐもった男の声が部屋いっぱいに響き渡ったのは。

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