第51話
「……おいおい、柏木よぉ。お前いつになったら、あのきれいな嫁さん連れ戻してくれる訳?」
オフィス街の一角にある少し古いビル。その最上階にある一番大きく派手な内装が施されている部屋で、黒釜ファイナンスの社長を担っている若い男が床に正座している柏木章一に向かってなめつけるように言った。
明らかに自分よりひと回り近く年下に見えるのに横柄な口ぶりで話を進めてくる社長に、章一は怒りが湧き上がりつつも必死に堪えていた。あと少し、あともう少しなんだと自分に言い聞かせながら……。
「そ、それなら、さっき行ってきました……!」
正座している己の太ももの上に置いた両手のこぶしをぐっと握りしめ、章一は言った。
「で、でも嫁の奴、弁護士に接近禁止命令の手続きを取ったとか何とか言い出して、うまい事連れてこれないんです。その上、厄介な仕事仲間にも邪魔され……ぐあっ!?」
「な~に、言い訳こいてんのっ?」
章一が最後まで言い切るのを待たず、社長はすたすたと彼に近付いてきて、その腹に鋭い蹴りを見舞った。一瞬、息ができなくなったと思いきや、その次にはひどい痛みが腹を中心に全身に駆けまわって、章一はその場にもんどりうって倒れた。
「そんなどうでもいい報告なんかしてくるんじゃねえよ、なあお前ら?」
社長は床に転がって苦しむ章一をへらへらと見て笑いながら、部屋の壁を取り囲むようにして立っている何人かの部下達に問いかける。屈強で厳つい風格をしている彼らは声に出して返事もしなければ頷く事さえしなかったが、それでも社長に同調する圧のようなものを絶えず放っていた為、章一は口の端からよだれを垂らしながら絶望するしかなかった。
「さっさとやってくれないと、離婚されちゃうだろ? そうなると、もっといろいろ面倒になると思わね? あと少しで借金返せそうなのに、チャンスをふいにするのかよ?」
「そ、それは……!」
「嫁さんに了承を得ようとして逃げられるんなら、次は不意を突いて捕まえちまえばいい。それでこのビルまで連れてきてくれれば、後は俺達に任せてあんたは自由の身って寸法だ。どうだよ、子供でも分かる簡単な事だろ?」
「……」
「男は内臓根こそぎ取っちまえば用なしだけど、女はたくさん使い道あるから有効活用してやらねえと。旦那の為だと思えば、何だってやるだろ? あのお人好しで優しい奥さんは」
お人好しで優しい。その言葉に、章一ははっと両目を大きく見開かれた。
そうだ。俺は小百合のそういうところに惚れて、結婚を申し込んだ。いつか悪い連中にだまされてしまうんじゃないかと心配になるくらい、お人好しで底抜けに優しい彼女の事が愛しくて仕方なかった。それなのに、自分が間抜けだったばかりに。そして、意気地なしであったばかりに、どれだけの苦労をさせてきただろうか。
小百合が、自分を拒絶し始めたのはいつだ? こっちを向いても笑わなくなってしまったのはいつからだ? 彼女が家を出て行って、いつ家にいてもしんと物音一つしない事に言いようのない不安と恐怖を覚え出したのは、いったいいつからだった……!?
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