第50話
「ちょうどよかったです、お嬢。これ、お願いできやすか?」
少しうつむき加減になってプルプルと震えている雫の前に大股で近付いてきた正臣は、分厚い両手に持っていた小さな物をそっと差し出してくる。何かと思って見てみれば、案の定だった。
「ひ、火打ち石……!?」
「そうです。本来ならば柏木さんにお願いしなきゃいけないところですが、それだと俺の事がバレちまいますでしょう? だからこれ抜きで行こうかと思ってたんですが、お嬢が帰ってきてくれてよかった。これでゲンを担いでカチコミに」
「……このバカ!!」
雫は正臣の手から火打ち石を奪い取ると、そのまま彼の頭に思いきり叩き付けた。それは頑丈で長持ちするはずの火打ち石が真っ二つに割れてしまうほど強い力であり、普通の人間だったら大怪我にも繋がりかねない危険な行為であるが、ありとあらゆる修羅場をくぐり抜けてきた正臣にとっては、蚊に刺されたも同然の事だった。
「何するんですか、お嬢。火打ち石がもったいないですぜ?」
どうして殴られたのか全く理解できない正臣が、きょとんとした顔で雫を見下ろす。そんな彼をアパートに戻そうと、雫はその分厚い胸元をぐいぐいと押し始めた。
「いいから早く着替えて! マサのそんな格好、従業員の誰かに見られたら、もう何の言い逃れもできないでしょ!?」
「それには心配及びません、お嬢。新本のアニキがお眠りになった事は耳をそばだてて確認取りましたし、誰の印象にも残らないよう、敵のアジトまで静かに歩いていきやす!」
「新本さんに見られなくったって、そんな格好でそこかしこを歩いていたら誰の印象にもばっちり残るし、下手したら警察に通報されるっての! いいから、お兄ちゃんが来るまでとにかく待ちなさいってば!」
「……っ、お嬢までそんな義理人情のない事を言うんですかい!?」
信じられないと言わんばかりに、正臣は自分の体を押してくる雫の両腕を掴み、まっすぐに彼女の顔を見つめてきた。正臣の鋭くも真剣なその視線に捉われ、思わず雫の体は強張って動かなくなる。恐怖からでも大きな圧に押されたからでもない。兄貴分の正臣がここまで懇願してくる様など、これまで一度としてなかったからだ。
「お嬢。今、柏木さんは本当に困ってるんです」
正臣が言った。
「柏木さんのお話を聞いて、俺は胸が熱くなりました。ここで仲間の為に何もせずに動かなかったら、俺は極道の風上にもいられません!」
「だからって……、だからってマサがわざわざ動く事ない! 相良組の傘下のクズ相手なら、クソ親父かお兄ちゃんに任せればいいの!」
「あんな膿みてえな連中の為に、お二人の手を煩わせる事の方がよっぽど悪いでさあ! お願いですから、どうか行かせてやって下さい!!」
その時だった。ぎゃあぎゃあと言い争う二人のどちらかの足が、パンパンに膨れ上がった雫のカバンを思い切り蹴飛ばしてしまった。その際、元より限界をとっくに迎えていたカバンのファスナーが一気に開いて、無理に詰め込まれていた中身の荷物が一斉にあちらこちらにぶち撒かれてしまった。
「ちょっとぉ! 文化祭で使う大事な衣装なのに!!」
それを見た雫はぱっと正臣から離れて、慌てて散らばってしまった物を拾い集める。正臣も「す、すみませんお嬢!」と謝りながら同じように拾い集めたが、ふと最初に手に取ったものを見て、ぽつりと言った。
「お嬢、これはいったい……」
「ああ。今度の文化祭の一環で、仮装パーティーがあるの。それは、その時用の……て、まさか!?」
雫がしまったという表情をした時にはすでに遅く、正臣はその手にした物を持ったまま、彼女の前から一気に走り去ってしまった。
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