第46話

旧姓・清水小百合しみずさゆりこと柏木小百合の半生は、正臣ほどひどくはなかったものの、それでもあまり恵まれている方ではなかった。


 中学生の時、父親の浮気が原因で両親が離婚。その後は定時制高校とバイトを掛け持ちしながら、病弱な母親と二人で生活を続けていたが、その母親も彼女が十七歳の頃にあっけなくこの世を去ってしまった。


 内気でおとなしく、遠慮がちな面もあった性格上、すでに別の家庭を持っていた父親に頼る事もできなかった小百合は、定時制の高校も中退し、一人で生きていく事を決意。さらにいくつかのバイトを掛け持ちして、何とか日々を過ごしていた。


 そんな彼女が、後の夫となる柏木章一かしわぎしょういちと出会ったのは、二十二歳の頃。バイト先である居酒屋に、章一が客としてやってきたのが始まりだった。


 小百合より二歳年上だった章一は、当時とある中小企業の会社で営業の仕事に就いていた。月に一度か二度くらいしかその居酒屋には来なかったが、一緒に来ている同僚達が羽目を外してぐてんぐてんに酔っ払っていくというのに、酒に呑まれる事のなかった章一は苦笑いを浮かべながらも介抱したり、愚痴を聞いてやったりと何かと世話を焼いていた。そんな優しい章一を、小百合はとても印象強く覚えていた。


 そして、それは章一も同じであった。まだ若いのにてきぱきと慣れた様子で仕事をこなし、疲れているだろうにそんな事など全く感じさせない小百合の笑顔に章一も惹かれていき、やがて彼女目当てに一人で居酒屋に来るようになった。


『必ず幸せにするから、俺と結婚を前提にお付き合いして下さい!!』


 居酒屋の常連と店員という間柄で少しずつ話をしていくようになって一年。章一から、突然そのような稚拙なプロポーズを受けて、小百合はひどく困惑したが、同時に大きな幸福感にも包まれた。こんな自分でいいのか、温かい家庭というものをよく知らない自分が幸せになっていいのかと何度も自問自答を繰り返す事一ヵ月、了承の返事をした時の章一の嬉しそうな顔を、彼女は今でもはっきりと覚えているという。


「だから、今でも信じられないんです。あんなふうになってしまってるあの人の事が……」

「全くだ。本当に同一人物なのかって疑っちまうくらい、ずいぶんな変わり様じゃねえか。何があったんだ?」

「……有り体で言えば、だまされてしまったんです」


 小百合は続きを話した。何でも結婚二年目に入ったばかりの頃、会社の同僚から言葉巧みに持ち掛けられた投資話にまんまと乗っかってしまい、夫婦二人で必死に貯めてきた貯金を見事なまでにだまし取られた挙げ句に逃げられたという。しかも、その同僚の借金の連帯保証人として名前を貸していたばかりに、貯めていた貯金よりはるかに多い借金を肩代わりする羽目になったのだ。


「……それから夫はすっかり変わってしまいました。人間不信になったというか、自分以外は全て敵だと思い込むようになって。やがて私にも、その……」


 そう言って、うつむき加減になった小百合の手首には、うっすらと青黒い痣のようなものが残っている。長年の経験から、それが暴力によってつけられたものだという事を正臣はひと目で見抜いた。

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