第41話

「……仕方ねえ。ここはお嬢の言う事を聞くとするか」


 自室に入った正臣は、雫からもらった仕事マニュアルの小冊子を手に、どかりと部屋の真ん中に座り込んだ。


 こんな教科書めいた本を読むのは、もう何年ぶりとなるだろうか。途中から行かなくなった中学のそれらさえまともに開かずに全て落書きまみれにしてしまったし、極道の世界にマニュアルなんてものは存在しない。一つ一つの仕事シノギを体一つでこなし、そのやり方を頭に叩き込んでいく事で、数多くの修羅場経験を乗り越えていったのだ。


 それゆえに、小冊子を目にしてからわずか五分。正臣の頭からショート寸前の煙がもくもくと噴き出し始めた。


「だぁ~っ! 全く訳が分からねえ!! 何じゃこのマニュアルは!!」


 画数の多い漢字は読めない事も多いが、それでも文章と一緒に添えられているイラストのおかげで、書かれている事自体は分かる。だが、容量のほとんどが極道に関する事のみで占められている正臣の脳は内容の理解を激しく拒否した。


 本当に何なんだ、このマニュアルはよ。


 両足の踵を付けて30度開き、右手を左手で包み込むように抑えて、そのままへその位置まで持っていった状態で背筋を伸ばすのが基本姿勢だぁ!? バカ野郎、そんな無防備に突っ立って、両手もすぐに使えねえようじゃ、鉄砲玉に「撃ち放題狙い放題だから、いくらでもりに来い」と言ってるようなもんじゃねえか。


 時間が空いた時は、すぐさま笑顔の練習? これもあり得ねえ! 極道に、はつらつとした満面の笑みが必要だと思ってんのか!? 取引相手になめられないよう、これでもかってくらいに両目のまぶたに力を入れ、凄みを聞かせたガンを飛ばす! これが一番に決まってるだろ。


 目玉となっている商品名の売り上げ文句を、店内中に聞こえるくらいの大声で呼びかけましょう? おいおいおいおい、このマニュアル作った奴は正気なのか!? でかい声でブツの中身を堂々公言して、それを張り込んでる警察サツどもに聞かせるような真似、取引中は絶対にあり得なかったぞ。必要最低限の発言しかしてこなかったし、何なら合い言葉や暗号を使った事だってあるぞ。それなのによぉ……!


 これまで生きてきて培ってきた経験全ての、それこそ真逆しか書かれていないマニュアルの数々に、正臣は言いようのない不安に苛まれた。


 コンビニなんて、世の中で一番最下層に近い仕事だと思っていた。極道のように常に危険と隣り合わせでもなければ、頻繁に暴力や大金に振り回される心配もない楽な仕事だと。ぶっちゃけ、誰にでもできるカスみたいな仕事でしかないとほんの24時間前まで思っていたのである。


「優也の奴、面倒な潜り先を用意しやがって。あのバカ野郎が……!」


 正臣は手の中の小冊子をぐしゃりと握り潰し、そのまま部屋の隅へと放り投げた。

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