第40話

「それじゃ、行ってくるけど……くれぐれも勝手に動かないでよね! 今夜の勤務時間まで、自分の部屋から一歩も出ない事!!」


 午前七時五十分。全ての身支度を整えた雫が部屋の玄関先で、口酸っぱくそう言う。朝食の後片付けを終えて、共に部屋を出ようとした正臣は全く不満を隠そうとしない顔で「お嬢~……」と渋った。


「やっぱり、俺に学校まで……いや、教室までの送迎をさせてやって下さい。萩野組の薄汚ねえ連中が、いつ何時お嬢を狙ってくるか分かんねえんですから」

「それに関しては、もう何度も言ったでしょ。謹んでお断りします!」


 だが、雫も決して負けない勢いでぴしゃりと言い返す。一度決めたら頑として譲らない。そんな性分も母親譲りなのだなあと思わず感心してしまった正臣だったが、だからといって簡単に「はい、分かりやした」と言う訳にもいかない。


 せめて、校門の前まででもと思って食い下がろうとしたが、そんな正臣の胸元に雫が押し付けたのは、『ハッピーマート所橋一丁目店』の仕事マニュアルがびっしりと収められた小冊子だった。


「今のマサがやらなくちゃいけないのは私の警護じゃなくて、自分がお尋ね者になってるっていう自覚をしっかり持つ事! それから、お店の仕事をきっちり覚える事なの! 次は新本さんに必要以上の迷惑かけるような事しちゃダメだからね!?」


 それじゃ、行ってきます! と元気に言い切って、雫はアパートから飛び出していく。押し付けられた小冊子を胸元に抱いたまま、正臣はどんどん遠ざかっていく雫を見送った。


「お嬢……、やっぱり姐さんに似てきたな。将来が本当に楽しみだぜ」


 きっと姐さんと同じく和服姿がよく似合う美人におなりだろうと思いながら、正臣は自分の部屋に戻る為に二階への階段を昇っていく。だが、鍵を取り出そうと部屋のドアの前でズボンのポケットをまさぐっていた時、左隣の部屋のドアがガチャリと開き、洗濯物が入ったかごを手にした浩介と出くわしてしまった。


「あっ……!」


 数時間前の失態が一気に頭の中で蘇り、正臣は慌てて両足を開くとそのまま前屈みとなって浩介に頭を下げた。


「新本のアニキ、お勤めご苦労様です! 先ほどはみっともねえ粗相をやらかしちまい、申し訳ございやせんでした!!」

「いや。初日だったんだし、それは別にいいけどさ」


 強い眠気に襲われつつあるのか、浩介はふわあっとあくびをしてからそう答える。夜勤をしている時のはつらつとした勤務態度とは雲泥の差だ。それにますますグッと胸が詰まるような感覚に襲われた正臣は、ぶんぶんと首を横に振ってからなおも言った。


「いや、これからも何かありましたらビシバシ言ってやって下さい! 永岡正臣、世話になったおやっさんの為にもおとこを見せないといけねえんで!!」

「……じゃあ、余計なおせっかいだけどアドバイスな」


 浩介は緩慢とした動きで正臣の横をすり抜けざま、耳打ちをするようにぽつりと言った。


「いくら遠縁で気が置けない間柄って言っても、朝っぱらから女の子の部屋に入って朝食をもらうのはやめとけよ? 特にあいつはちょっと面倒くさいところもあるから」

「あいつ?」


 不思議そうに首をかしげる正臣に、浩介は右隣の部屋の方に視線を向ける。正臣がそれにつられて顔を動かしてみれば、そこのドアがほんの少し開いていて、隙間から天野がやや涙目でこっちをにらんでいた。


「あ? てめえは確か天野って名前の……」

「ま、負けませんから!」

「あ?」

「あんたみたいな引きこもりニートの子供部屋おじさんには、絶対に!!」


 そう言って勢いよくドアを閉めてしまった天野に、浩介はくつくつとおかしそうに笑いながらベランダの方へと行ってしまう。だが、当の正臣は何が何だかよく分からず、さらに首をかしげるばかりだった。

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