第32話

午後九時三十分を少し過ぎた頃。正臣は自分の部屋を出て、雫に言われた通り、左隣の部屋のドアの前に立った。


『いい? 今日、マサに仕事を教えてくれる人は、うちのお店で一番の古株なの。確かお兄ちゃんと同い年くらいだったと思うけど、だからって軽々しい態度は取らない事。うちのお店に限ってはマサが一番の下っ端なんだから、礼節をわきまえてきちんと受け答えしなさいよ!?』


 雫の部屋を出る時、彼女は口が酸っぱくなるほど何度もマサにそう言い聞かせたが、当の本人にはさほど響いていなかった。その証拠に、左隣の部屋のドアの前に立つ彼の口元は、あからさまにバカにしたような笑みが浮かんでいる。


「ふん。たかが堅気のコンビニバイトだ。拳銃チャカの密輸に比べりゃ、はるかに楽勝ってもんよ」


 あまりコンビニというものを利用した事のないマサだが、店の中に入ってきた客が持ってきた品をレジに通し、提示した金額を受け取ったら、後は「ありがとうございました」と言えばいい。そのパターンを何度も繰り返す仕事だろうというおぼろげな認識だけは、かろうじて持っていた。だから、目の前のドアをノックするまでは全く疑いもしなかったのだ。決して、それだけの仕事ではないという事など――。


 いくら設定が決まっているとはいえ、優也と同じ年頃の若造に舐められる訳にはいかねえ。そう思った正臣は、目の前のドアを二度三度とノックした後、アパート中に響き渡る野太い大声で啖呵を切った。


「お初にお目にかかりやす! 手前は本日より『ハッピーマート所橋一丁目店』のケツモチを務めさせていただく事になりました、永岡正臣という半端者でございます! ならびにお嬢……いや、宮前みやまえ雫さんの遠縁でもあります! 何分なにぶん、俗世に疎い半生を送ってまいりましたので、度々のご迷惑をおかけする事になると思いますが、何とぞよろしゅうお願い申し上げる次第でございます!!」


 ドアも、備え付けの小窓も、正臣の声量に恐れおののくようにビリビリと震える。だが、そんな空気の震えなど全く意にも介さない様子で、何秒と経たないうちに部屋の主の声がドア越しに聞こえてきた。


「……あ~。天野からLINEが来てたよ、あんたか。引きこもりの子供部屋おじさんのわりにはいい声してんな。寝起きに利くわ」


 きい~……と、あまり立て付けの良くない軋んだ音を立てながら、部屋のドアが開かれていく。その向こうから顔を出してきたのは、確かに優也とほぼ年の変わらない若い男だった。

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