第90話

そんなはずあるか、『あいつ』は確かにいたんだ!


 俺は、抱えたままだったスケッチブックのページを乱暴にめくる。ほら、やっぱりだ。どのページにも『あいつ』がいる。第一希望の美大の実技試験のテーマだって、こんなにもはっきり覚えているんだ。「今一番、あなたが気になっているもの」だって。


 だから俺は、『あいつ』を毎日のように描き続けたんだ。誰よりも気になっていたから、誰よりも大事に思っていたから。誰よりも一緒にいたいと思っていたから。


 それなのに、どういう事なんだよ。俺の心の中にはこんなにも鮮やかに『あいつ』の事が残っているのに、どうして……。


「……っ、まさか」


 突然、嫌な事を想像してしまった俺は、慌てて教室を飛び出した。学校に辿り着いた時は目に留まっていなかったけど、もしもあの花壇にまで何かあったら……! それだけはどうか頼むと、必死に願った。これ以上、『あいつ』がここにいたっていう証拠がなくならないようにって……。


 そしたら。


「あ、あははっ……。何だよ、これ……」


 結果から言えば、花壇は無事だった。いや、それどころか、最初に咲いていた黄色だけじゃなくて、定番の紫やら青、白、オレンジと、実に色とりどりのパンジーの色が一斉に咲き誇っていたんだ。まるで、もうここにはいない『あいつ』の代わりに俺を出迎えてくれたかのように。


「おい、こんなにもパンジー咲いたぞ……。勝にも教えてやらなくちゃな、三人で写真でも撮って……」


 何で今、俺はこんなに咲き誇っているパンジーを一人で見てるんだろうと、猛烈に悲しくなった。俺と勝と『あいつ』の三人で、丹精込めて世話してきたのに。この学校の最後の卒業生になるんだからって『あいつ』に焚き付けられて、ずっと一生懸命やってきたのに。何で今、俺は一人っきりで……。


 ……とにかく、勝に教えてやろうと、俺はポケットの中に入れっぱなしにしていたスマホを取り出そうとする。その時、目の端に映った花壇の隅っこの方で不自然に土が掘り返されているような痕を見つけた。


 心当たりはあった。でも、あれはもう何か月も前の事だ。普通、それくらい時間が経ってしまえば、ほんの少し掘り返した程度の土なんてあっという間に均されて分からなくなるものだって、勝も言っていた。それでも、心当たりがあると思ってしまったのは、初めて『あいつ』と過ごした時間を忘れてしまった後の事だったからだろう。


『雑草抜いてたの、勝君が気付く前にやっておこうと思って……』


 もしあの時、『あいつ』が本当は雑草抜きや小石拾いをしてたんじゃなく、別の何かをしていたんだとしたら……。


 頼む。こればっかりはそうであってくれ。これ以上、『あいつ』がいなかった事にはしないでくれ。


 誰に言うでもなくそう願いながら、俺はスケッチブックを足元に落とし、そのまま土が盛り上がっている花壇の隅っこを素手で掘り返し始めた。


 そして、見つけたんだ。『あいつ』が『あいつ』なりに必死になって残していってくれた、最初で最後の。そしてめいっぱいの気持ちがこもったものを――。

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