第88話

次に目を覚ました時、俺は清潔なベッドの中、真っ白な天井を見上げるようにして寝ていた。


 そこら中に充満している独特の薬臭さのせいで、ここがどこかの病院なんだろうなって事はすぐに分かったが、何で自分がこんな所に寝っ転がっているのかまでは分からなかった。


 そもそも、今は何時だ? もうすぐ受験が始まるのに、こんな所で寝ている暇はないんだぞ俺は。『あいつ』だって応援してくれているんだ。


 ああ、もう。何でこんなに背中とか腰が痛いんだ? 腕は大丈夫なんだろうな?


 まだうまく動かせない上半身を使うのはあきらめて、俺は両腕を天井に向かってゆっくりと伸ばす。幸いにも擦り傷一つなく、背中や腰のように痛みもない両腕は、指先まで正常に動いてくれた。


 よし、行ける。今から行けば、きっと試験には間に合うだろう。実技試験のテーマはあらかじめ分かっているんだ。後は時間さえあればいい。


 腕だけに力を込めて、ベッドに沈んだままの体を無理矢理起こそうとしていたら、病室のドアがおもむろに開く。そして、そこに姿を現した奴を見て、俺は思わず声を出してしまった。


「ま、勝!?」

「……っ、直樹! 目が覚めたのか⁉」


 俺の声にびくっと全身を震わした勝だったが、俺が体を起こそうとしている様を見て、慌ててベッドまで駆け寄る。そして、俺の両肩をしっかりと抑えてベッドに押し返そうと躍起になった。


「お、おい勝、何するんだよ? 俺、受験に行かないと……!」

「……受験の事なら、今は気にすんな。先生とおばさん呼んでくるから、もう少し寝てろ」

「気にすんなって……そんな訳にはいかないだろ。何の為に今まで」

「お前、何があったのか覚えてねえのかよ?」

「え?」


 何があったのか……そんなの、決まってるだろ。俺はこの町にある美大への受験を受けに来たんだ。美大までもう目と鼻の先の距離までやってきて、後は交差点の横断歩道一本渡り切れば到着する。そう思って信号待ちしていたら……。


「お前、事故に巻き込まれたんだよ」


 はっきり思い出すより一瞬早く、勝がそう言った。


「信号待ちしてたお前らの列に、居眠り運転の車が突っ込んできたんだ。お前は全身の打撲と気絶くらいで済んだけど、ひどい奴なんか両足の複雑骨折とかになったって……」


 そうだ、そうだった。勝の言う通りだ。


 一瞬しか視認できなかったから今までその自覚がなかったけど、確かに俺はあの時、事故に巻き込まれた。車が突っ込んできたんだ。そして、その車にまともにぶつかるはずだった俺を庇うように突き飛ばして、『あいつ』が……!


「……勝!!」


 ベッドに押し戻そうとする勝の力に抵抗するように、俺はその腕をがしりと掴む。不思議なもんだ。これまで勝に力比べで勝った事なんか一度もないのに、今は抗う事ができてるなんて。


 腕を押し返してくる俺の力に驚いた顔を見せる勝。俺は、そんな勝に矢継ぎ早に問いかけた。


「あれから何日経った!? 『あいつ』はどうなった!?」

「あ、『あいつ』って……」

「俺を美大まで送ってくれるはずだったんだ。あの交差点まで一緒だったんだよ! だから、『あいつ』も事故に巻き込まれて……!」

「二日だ」


 俺の言葉を遮り、さらには押し返していた俺の腕を薙ぎ払うように離してから、勝が答えた。


「事故から二日経ってる。受験ももう終わってるよ」

「受験の事は気にするなって、さっきお前が言ったばかりだろ!? それより俺が今知りたいのは、『あいつ』が無事かどうか……」

「……無事な訳ないだろ」


 次にそう答えた勝の声は震えていた。よく見れば、俺への見舞いにそんな必要はないはずなのに、勝はうちの学校の制服を着ていた。


「さっき、葬式行ってきた。骨も拾わせてもらったよ」


 そう言ってから、勝は深く顔を伏せる。前髪ですっぽり隠れてしまってその表情は見えなくなったが、小刻みに震え出したその体からどういうものであるかは簡単に想像できた。


「タチの悪い冗談は、シャレにならねえぞ……?」


 たっぷり時間をかけてから、そう言葉を返したが、もう勝はそれ以上の事は何も言ってくれなかった。

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