第87話

「まだ緊張してる?」

「いや、違うよ。俺達の町とは違う雰囲気がちょっと嫌だっただけで」

「すぐに慣れるよ」


 確信を持った言い方で、あいつがそう言った。


「春になったら、嫌でも毎日この辺を歩くんだから」

「通学に二時間以上かかるのは面倒だな。アパートでも借りようか」

「うん、いいね」

「そしたらお前、毎日モデルしに来いよな」


 美大に受かったら、と俺は頭の中でたくさんの妄想をした。


 俺達が住む田舎町とは明らかに何もかもが違うこの町で暮らす事に、俺はたくさんの戸惑いを覚えるんだろう。でも、そんな俺の隣にいつでも『あいつ』がいてくれるのなら、そのようなものはきっとすぐに些細な事に変わるんだ。それこそ、これっぽっちも気にならないくらいに。


 他愛のない話を毎日しよう。大学の授業が終わったら、さほど特別とも呼べないような場所に一緒に出かけて、ありふれたものを一緒に食べよう。そしてたくさんたくさん、一緒に絵を生み出していくんだ。


 『あいつ』の進路を何一つ聞いていなかったのをいい事に、俺の身勝手な妄想はどんどん膨らんでいく。そんな未来がすぐ目の前にあるんだと、これっぽっちも疑わなかった。


「……うん、そうだね」


 俺の言葉に小さく頷いてから、『あいつ』が俺の空いている左手を取る。俺は右肩にかけていたバッグをしっかり持ち直してから、『あいつ』の手を握り返した。


「行こう、直樹」


 そう言って、『あいつ』が俺の左手を引いて歩きだす。俺が受験する美大は、この先の大きな交差点を跨いだ向こう側にあった。


 通勤や通学など、たくさんの人間や車の姿が交差点に集まってきていて、順番に光っていく信号機の指示に従って進む。俺達が交差点に着いた時、目の前の信号はちょうど赤色だった。


 ここを渡れば、美大はすぐそこだ。そして、受験が始まる九時までは、まだ少し時間がある。


 もう少し何か、『あいつ』に言葉をかけたい。これからの事をもっと紡ぐ事ができるような、そんな幸せな言葉を。そう思いながら横を見てみれば、そこには『あいつ』のとびっきりの笑顔があった。


「……直樹、これからもたくさんの絵を描いていってね?」


 『あいつ』が言った。


「直樹の絵で、たくさんの人の心が豊かになるの。そして、たくさんの人が幸せになってくれるんだから……」

「……」

「約束だよ、直樹」


 ふいに、俺の左手を取ってくれていた『あいつ』の手が静かに離れ、そのまま俺の胸元へと移動する。


 そして、次の瞬間。耳をつんざくようなすさまじいブレーキ音が聞こえてきたと同時に、俺の体は交差点の前から横の方へと思い切り突き飛ばされた。


 え……?


 ほんの数秒でしかないはずのその時が、永遠に思えるほど長く感じられた。そんな限りなくゆっくりと流れる時間の中で、俺は確かに『あいつ』の口がこう紡いだのを見た。


「直樹、また明日ね」


 おい、何言ってるんだ。今はまだ夕方なんかじゃない。そんな言葉聞きたくないのに、どうして……。やめろよ、頼むからやめてくれ……!


 そう強く願った俺と、こっちに向かってずっと優しく笑っていた『あいつ』の間を、見知らぬ大きな車の影が遮る。そして、ぐしゃあっと何かがひしゃげるような不気味な音を聞いたのを最後に、俺の記憶はそこで途切れた。頭の中に、霞なんかなかったっていうのに。

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