第86話

午前六時三十分発の長距離バスに乗り込んだ俺達は、ゆっくりと母さんが作ってくれたおにぎりを食べ始めた。


 美大にほど近い最寄りのバス停到着まで、約二時間。そこから徒歩で五分ほど西に進めば、受験開始時間までわずかだが余裕を持つ事ができる。念の為にと、前日入りする事も考えていたけれど、何故かそれは『あいつ』に止められた。


「バスに乗り遅れなきゃいいんだし、降りた後も私がちゃんと道案内する。だから、無理にホテル代まで払う必要ないよ」

 

 何度も強くそう言ってくる『あいつ』は、実際に受験する俺よりも真剣かつ必死だった。


 ……いや、それは今も変わらなかった。卵焼き入りの大きなおにぎりを頬張りながらも、『あいつ』は何事か考えこんでいるようで、隣の座席にいる俺を全く見ようとしない。


 それが寂しくなった俺は、何の脈絡もなくふいに「母さんのおにぎり、うまいだろ?」と話しかけた。


「でもさ、勝んちの新米で作ったおにぎりはもっとうまいぞ? おすそ分けしてもらったら、絶対にまたおにぎり作ってもらおうな?」

「……っ、うん」


 一瞬、『あいつ』の息が詰まる音が聞こえる。朝早いせいか、バスの中は俺達の他に乗客がいなくて、そのバスのエンジン音が鈍く車内で響いているっていうのに、やたらその音ははっきりと聞こえた。そして。


「きっと、ものすごくおいしいんだろうね。食べてみたかったなあ……」


 おい、また間違えてるぞ。何でさっきからお前はそう言葉のチョイスを間違えるかな。緊張しすぎにも程があるだろ?


 だが、俺はあえてそれを口に出さず、気付かないふりをした。今、そんな事を言ったら、夕方を待たずして『あいつ』がいなくなってしまうような……そんな気がしてならなかったから。


 そして、俺のその嫌な予感は、全く想定していなかった最悪の形で的中してしまう事になる。






 午前八時三十分。予定時間通りに、長距離バスは美大近くのバス停に着いた。


 結局、俺達以外の誰も乗客は乗ってこず、運転手以外の姿が見えなくなったがらんどうのバスを見送れば、途端に周りの朝の喧騒が耳に飛び込んできてうるさく感じられた。足元に土がなくて、アスファルトだらけなのも違和感がある。思わず顔をしかめると、そんな俺の額に『あいつ』の細い人差し指がこつんとぶつかってきた。


「すごい顔になってるよ?」


 くすっと笑いながらそう言ってくる『あいつ』の指先が、すうっと俺の頬まで下りてくる。たったそれだけで、魔法みたいに俺の眉間から険しいものが消えた。

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