第85話

それから二日後の事は、今でもはっきり覚えている。少なくともあの霞は、今の今までこの日の記憶を俺から奪い取る事はできなかった。


 あの日の最初の記憶は、まだ外が薄暗い早朝。窓の外から俺の名前を呼ぶ、『あいつ』の声から始まった。


「……直樹~! 直樹、おはよう~! 今すぐ起きなさ~い!」


 スマホのアラームが働くより少し早めに聞こえてきた『あいつ』の声は、まだ半分夢の中にいた寝起きの俺の耳に心地よく響いた。これが母さんだったら、ほんの少し煩わしさが入り混じっているというのに。


 いとも容易く目を覚ます事ができた俺は、ベッドから起き上がってすぐに窓のカーテンを開ける。そこから外を見下ろしてみれば、セーラー服姿の『あいつ』がこっちに向かってぶんぶんと大きく手を振っていた。


「おはよう、直樹!」

「……おはよ、飯は食ってきてんの?」


 窓を開けながらそう尋ねてみれば、『あいつ』はううんと首を横に振った。


「緊張しちゃって、喉を通らなかった」

「何でお前が緊張するんだよ。今日、受験するのは俺なんですけど?」

「私が直樹の分も緊張したら、より実力を発揮してもらえると思って」


 いい考えでしょ? と言いたげに、『あいつ』がにこっと笑う。そんな訳ねえだろって言ってやれなかったのは、『あいつ』が俺の応援団長だって事がこの数ヵ月で充分に分かっていたから。


「すぐ支度するから」


 県外に行くのだから、準備は前の日までに全て終わらせていた。後は着替えて、必要な物を詰め込んだバッグを持って、『あいつ』と一緒に行くだけだ。


 俺がそう言うと、『あいつ』はこくりと頷いて、玄関の方へとゆっくり向かう。俺は壁にかけていた制服を鷲掴むと、急いでシワだらけのパジャマを脱ぎ捨てた。






「はい、これ。バスの中で食べてね」


 昨日、前もって朝食は行きのバスの中で食べると伝えておいたからだろう。玄関先まで見送りに来てくれた母さんは、タッパーの中にぎゅうぎゅうに詰め込んだ大きめのおにぎりを俺によこしてきた。


 必勝合格祈願を米の一粒にまで込めてくれているであろう母さんのおにぎりは、ずっしりと重い。ありがたいけど、一気に食ったら眠くなってしまうだろうから、ゆっくり味わって食べよう。そう思いながら、俺は「ありがとう」と言葉を返した。


「精いっぱい、頑張ってくる」

「うん、直樹なら大丈夫よ。ねえ?」


 母さんが俺の横に立つ『あいつ』に同意を求める視線を向ける。当然とばかりに『あいつ』は「はい」と答えた。


「私が、ちゃんと連れていきますから。どうか安心して下さい」

「あら、心強いわ。あなたもおにぎり食べちゃってね」

「はい。今まで、ありがとうございました」


 ……今まで、ありがとうございました? 何言ってるんだ?


 普通、こういう時は「おにぎりありがとうございます」とかだろ? 何、変な間違いしてるんだよ。


 さっきの、俺の分まで緊張しているっていうのは、あながち冗談とかじゃなかったみたいだな。『あいつ』の言い間違いに思わずぷぷっと笑ってしまって、少し心が軽くなった。


 だから、きっとそのせいだ。気が付いたら俺は『あいつ』の手を取って、そのまま玄関先から歩き出していた。


「じゃあ、行ってくる」

「……はい、行ってらっしゃい」


 すぐに背中を向けてしまったから、その時母さんがどんな顔で俺達を見送ってくれていたのかは分からない。でも、視界の端に『あいつ』の少し赤くなった顔が映っていたのは分かった。


「な、直樹?」

「……バス停まで」


 うっすらと山あいから昇ってきていた朝日に照らされてはいたものの、またムードもへったくれもないあぜ道だ。その先をまっすぐ見据えながら、俺はさらに『あいつ』の手をぎゅっと握り込んだ。


「今のうちから慣れておこうと思って」

「え?」

「これから先も、ずっとこうして歩いていきたいから」

「……」


 『あいつ』は返事をしてくれなかったけど、その代わりに俺の手をしっかりと握り返してくれた。

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