第84話

それからは、本当にあっという間だった。


 俺も勝も、それから『あいつ』も穏やかな日常を送り続け、大きく何かが変わるような事は……いや、違った。一つだけ、俺達の中で特別な事が起こった。


「直樹、勝君! ねえ、見てみて!」


 俺の美大受験を二日後に控えた日の朝の事だ。いつものように三人でパンジーの花壇の世話をしようと準備をしていたら、先にそこへと目を向けた『あいつ』が突然甲高い声をあげた。


 特に勝なんか、大げさなくらいその場でびょんっと飛び上がったものだから、俺の驚きはさらに正比例して大きくなる。かろうじて笑い飛ばすような真似をせずにいられたのは、次に聞こえてきた『あいつ』の言葉のおかげだった。


「パンジー、咲いてるよ!」


 俺も勝も、ほぼ同時に「えっ?」と声をあげ、持っていたシャベルやらじょうろを放り出して花壇のすぐ側に駆け寄る。見ると、俺達がずっと世話してきたパンジーのうちの一つが小さな黄色の花を咲かせていた。


「……やった、咲いてる」


 勝がぽつりと言う。俺も「本当だ、咲いてる……」と言葉を続けた。


「すげえ。俺、パンジーって紫のイメージしかなかったから、黄色の奴見るのは初めてかも」


 佐竹さんに苗をもらった時、「どれがどの色を付けるかちょっと分かんなくなっちまってるけど、まあ大事に育ててやれや」と言われた事を思い出す。その時は逆に何色になるのか楽しみで仕方ないと『あいつ』は言っていたけど、俺は全部定番の紫ばっかりになるんじゃないかとあんまり期待していなかった。


 でも今は、何だかちょっと感動している。これまでずっとスケッチしてきたパンジー達だったけど、今ほど鉛筆画ばかりだった事が悔やまれてならない。水彩画でも油絵でもいいから、この黄色いパンジーの色をスケッチブックの中に残しておきたいと強く思えてならなかった。


「ねえ、二人とも」


 ほうっと息を吐き出して花壇を見入っている俺と勝に、『あいつ』が声をかけてきた。


「パンジーの花言葉って知ってる?」

「花言葉ぁ?」


 勝がすっとんきょうな声をあげながら、首を傾げる。いくら農業に従事する生き方を決めたといっても、さすがに花言葉までは把握できていなかったか。とはいえ、俺も全く知らないから偉そうな事は言えないなと苦笑いを浮かべていたら、『あいつ』がにこっと笑いながら教えてくれた。


「パンジーの全体的な花言葉は『もの思い』とか『私を思って』っていうのがあるんだけど、色によって花言葉がさらに増えるんだって」

「へえ。じゃあ、この黄色いパンジーには?」


 純粋に知りたくて、俺は花壇の中でそっと咲いている黄色のパンジーを指差す。すると『あいつ』はほんの一瞬の間を置いた後で、こう答えてくれた。


「『つつましい幸せ』と『田舎の喜び』、そして『記憶』だよ」


 それを聞いて俺は、この黄色のパンジーが一番最初に咲くに最もふさわしいものだったと、さらに感動してしまった。


 相変わらず、『あいつ』が夕日の中で「また明日」と言うたびに変な現象は起きるけども、それでも三回に一度の割合で『あいつ』との記憶がうっすら残る事も増えてきていて、俺はすっかり安心していた。


 これはきっと、美大を受験する事へのプレッシャーが起こしている一種の記憶の混乱だろうと勝手に決めつけ、今日までほったらかしにしていた。美大にさえ受かって自分の夢への第一歩を踏み出す事ができれば、こんな訳の分からない現象はきっと治まる。そして、『あいつ』とこれからもずっと一緒に……。


 そんな決意を後押ししてくれるかのように咲いた一輪の黄色いパンジーの花言葉は、俺をさらに勇気づけてくれた。そのせいか、俺の口は勝手に言葉を紡いでいた。


「美大、絶対に受かってみせる……」


 意図して口に出した言葉じゃない。だから、それを勝や『あいつ』に聞かれているだなんて思いもしなかったし、少しして勝が強めに背中を叩いてくるまで、俺はその事に全く気付けなかった。


「頑張れよ、直樹。出し切ってこい!」


 親友の熱いエールもまた、俺にとって心強い味方だ。それを分かってくれているかのように、黄色いパンジーが花壇の中で静かに揺れていた。

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