第83話

「お願い。お願いだから、直樹……」

 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、『あいつ』は何度も「お願い」という言葉を必死で紡ぎ出す。その声があまりにも切なくてつらそうに聞こえて、俺はもうそんな声は聞いていたくなかった。だから。


「……うん、分かったよ」


 『あいつ』から手渡されたスケッチブックをしっかり抱えながら、俺は頷いた。


「お前の方が上手く案内できるなら、その方が俺も助かるよ」

「本当? 直樹……」

「ああ。ここだけの話、母さんは方向オンチだから、ちょっと不安だったんだ。だから頼めるかな?」

「うん、うん……!」


 こくこくと大きく頷くと、『あいつ』は飛び込んでくるかのように俺の胸元に抱き着いた。さっきといい、今といい、『あいつ』の大胆な行動に振り回されている俺は、情けないが何も返せずにまた固まってしまう。


 そんな俺の耳に、『あいつ』の声が優しく届いた。


「……大丈夫だからね、直樹。私が、直樹の事を守るから」

「え?」

「勝君の時だってできたんだもん。だから、直樹の事だってちゃんと……」

「おい、何言って」

「直樹」


 俺の胸元に埋めていた顔をぱっと持ち上げる『あいつ』。それと同時に、俺達の周りにはいつの間にか夕日のオレンジ色が差し込んでいて、『あいつ』はその色に包み込まれるように染まっていった。


 まずい。そう思った時には、『あいつ』はもうあの言葉を口にしていた。


「直樹、また明日ね」


 そう聞こえた途端、俺の頭の中に例の霞が広がっていき、一気に『あいつ』の姿が見えなくなる。そして、はっと気が付いた次の瞬間には、俺は自分の家の玄関前に立っていた。


 俺は急いで、バタバタと両腕を動かして体じゅうを確かめる。そして、持っていたスケッチブックの表紙が少し土で汚れている事、胸元にほんのわずかな痛みがある事、最後に自分の唇に優しい感触が残っている事に気が付き、ほうっと安堵の息を吐き出した。


 この不可思議な現象がどういったものか、どうして起こるのかは全く分からない。それでも、ついさっきまで今日の『あいつ』と一緒にいた事、その間に起こっていた事を今回は忘れずにいられて、本当によかったと思う。


 今日、俺は初めて誰かに嫉妬した。今日、俺は『あいつ』と初めてのキスをした。そして今日、俺は改めて『あいつ』への気持ちを確認する事ができた。


 俺は、『あいつ』の事が心から好きなんだって事を――。

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