第82話

(え……?)


 初めて得た優しい感触に、俺は何の抵抗もできずに大きく両目を見開く。スケッチブックを持っている事さえできなくて、自分の足元にばさりと落ちる音がやけに響いて聞こえた。


 何の娯楽もない田舎町、学校帰りのあぜ道のど真ん中。ファーストキスをする場所としてはあまりにも不釣り合いで、しかもムードを作る暇もなく突然の出来事だ。でも、世界中の何よりも『あいつ』が俺の一番近くにいる。その事が何よりも心地良くてたまらなかった。


 時間にしたら、ほんの数秒だった事だろう。やがて『あいつ』の優しい感触が俺からそっと離れていき、うまく見えなかったその顔がはっきりと分かるようになる。『あいつ』は微笑んでいたが、その目から涙を一筋流していた。


「え……?」


 訳が分からなかった。だって、今のはそっちの方から……。なのに、どうして泣いているんだよ? 笑っているのに、どうして……。


「ど、どうしたんだよ……」

「嬉しいの」


 どうしていいか分からず、どもりながら尋ねてみれば、『あいつ』は首を横に振りながら答えた。


「直樹がそんなふうに誰かを羨むって事は、それだけ自分の事を認めてあげてるって事だから」

「え……」

「いいんだよ直樹、自分に自信を持っても。その上で誰かをうらやましく思えるのは、もっと頑張れるっていう証拠なの。勝君が農業で誰かを幸せにできる事が決まった今、直樹だって直樹の絵で皆を幸せにできるんだから」


 そう言うと、『あいつ』は俺の足元に落ちていたスケッチブックを拾い上げ、俺にそっと手渡してきた。


「ねえ。美大の受験って、いつだったっけ?」

「え……。ああ、今月の末だけど」

「私も一緒に行っていい?」

「え?」

「ダメ?」


 まるでねだってくるように、『あいつ』が小首を傾げる。受験する美大は県外にあって、ちょっとした交通機関を利用しなければならなかったから、当然だが母さんに同行してもらうつもりでいた。だから、『あいつ』がこんな事を言ってくるのが不思議で仕方なかった。


「いや。俺、母さんと一緒に行くつもりでいたから」

「じゃあ、私が直樹のお母さんの代わりに行くよ。私、美大への行き方知ってるし、直樹の事をスムーズに送ってあげられるよ?」

「え、でも……」

「お願い、直樹」


 そう言うと、『あいつ』は右手をそろりと伸ばして、俺の服の袖をキュッとつまんだ。


 その指が震えている事に気付いたのは、すぐだった。そして、『あいつ』の顔が今度は怯えたものへと変わっていた。


 目まぐるしくころころと変わっていく『あいつ』の顔に、俺は言いようのない不安に駆られた。ここで俺が「そんなのいいよ」なんて言ってその震える右手を振り払ってしまったら、もう二度と『あいつ』が笑ってくれないような気がしたんだ。もうあの優しい感触に触れる事もできなくなるんじゃないかって思えて、ものすごく怖くなった。

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