第五章

第79話

「え? 何それ、どういう事なの!?」

「……今でも、よく分からない」


 葵生が心底訳が分からないと言わんばかりに両目を丸くして、俺に問いかけてくる。それに対して、俺は明確な答えを出す事なんてできなかった。たぶん、これから先もずっと。


「あの頃、そういう事が何度も起きたんだ。勝がいたら、そんな事もなかったんだけど」

「その子と、二人でいた時だけって事?」

「ああ、しかも決まっていつも夕暮れ時だった。『あいつ』がまた明日って言うたびに、頭の中にぼんやり霞がかかったみたいになって、気が付いたら家の前に立ってるんだ。どうやって帰り着いたのか、その時に限って覚えてなくて」


 ひどい時には、その日『あいつ』とどのように過ごして、どんな話をしたのかも忘れてしまう事もあった。あまりにも頻繁に起きるせいで、何か大きな病気にかかってしまったんじゃないかと不安にもなったが。


「でも、思い返してみれば、『あいつ』以外の事ははっきり覚えてるんだよ。逆に言えば、一日の中から『あいつ』に関する事だけがすっぽり抜け落ちているって感じで……」

「……ねえ、それって」

「違う。『あいつ』はいたんだ」


 葵生が何かしらよくない事を言い出しそうな気配を感じたので、先んじてそれを封じる言葉を放つ。今、唯一の希望となっている葵生にはそんな事を言ってほしくなかった。


「『あいつ』は、確かに俺達と一緒にいた。そうじゃなきゃ、こんな絵は描けないだろ」


 そう、俺のスケッチブックが何よりの証拠だ。


 あの日から俺は、美大を受ける際の実技試験の練習だと理由を付けては、いろんな瞬間の『あいつ』をスケッチブックに描き留めてきた。


 無邪気に笑ってる顔、ちょっと不機嫌になってむくれてる顔。名前を呼んだら、嬉しそうに肩越しに振り返ってきた顔など、本当にたくさんの『あいつ』を絵に収めた。そのたびに『あいつ』はぱあっと目を輝かせながらいろんな言葉で褒めてくれたんだ。


「頭の中に霞がかかる日々は不安だったけど、スケッチブックの中に増えていく『あいつ』を見て、何度も思ったよ。『あいつ』は幻なんかじゃない、『あいつ』は確かにいる。俺達は確かに一緒にいたんだって」

「……うん、そうだね」


 俺があまりにも必死でそう言うものだから、葵生の表情に影が走る。慌てて「ごめん」と謝ると、葵生は緩く首を横に振った。


「謝らないでよ。そんな必要ないじゃない」

「でも」

「……今朝会った男の人が言ってた事って、本当なの?」


 ぽつりとそう言った葵生の言葉に、俺は今朝の事を思い出す。男の人っていうのは勝の事で間違いないだろう。その勝が言っていた事も思い出した時、俺は全身にぞわりと迸った寒気に耐えられずに震えた。


 そして。


「え? あっ……!?」


 何年かぶりに、それは襲いかかってきた。


 あの頃、夕方くらいに『あいつ』から「また明日」と言われるたびに、頭の中にかかってきた霞だ。しかも、今やってきたのは、あの頃とは全く比べものにならないほど大きい。とてつもなく速くて大きいそれが、俺の頭の中にいる『あいつ』を一気に覆い隠そうとしていた。


「直樹? 直樹、どうしたの!?」


 両手で頭を抱え込むような格好になった俺を見て、葵生が不安そうな声をあげる。どれだけ大丈夫だと言ってやりたくても、霞はそんな事すら許してくれなかった。


 ダメだ、やめろ。まだ全部、葵生に『あいつ』の事を話せていないのに。


 頼むから、あともう少しだけ時間をくれ。今のこんな体たらくを見せている俺が、決して『あいつ』のせいなんかじゃないって事を葵生に話させてくれ。お願いだ。


「あ、あお、い……!」


 俺は、俺の頭の中を勝手に這い回る霞に抵抗しながら、ゆっくりと葵生に向き直る。そして、ぶるぶると痙攣し始めた右手を必死に動かして、花壇の方を指差した。


「あ、『あいつ』は、確かにいたんだ……。そ、それなのに、俺のせい、で……。俺を、助けてく、れた、ばっかりに……」

「直樹?」

「頼、む。葵生……」


 最後までうまく話せるか分からないけど、それでもどうか覚えていてくれ、『あいつ』の事。


 そして、全部話し終わったら、今度こそちゃんと言うから。


 こんなどうしようもない奴だけど、俺は、本当に葵生の事が――。

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