第78話
『あいつ』は朝と同じく、両手を土まみれにして花壇の手入れをしていた。ていねいに雑草を抜いて、パンジーの茎や葉の邪魔になっている小石を取り除いて、小さく付き始めた蕾に向かってじょうろの水をかけてやっている。
俺は、そんな『あいつ』の背中に向かって名前を呼んだ。
「――――!」
「……直樹?」
家から一気に走ってきたせいか、『あいつ』の名前を呼ぶ声がずいぶんと枯れていた。それでも『あいつ』は俺に気付いてくれて、ぱっとこちらを振り返る。
俺はそんな『あいつ』に大股で近付くと、その小さな体を思いっきり強く抱きしめた。
「な、直樹!? どうしたの!?」
突然の俺の行動に、『あいつ』は相当驚いたようで、初めて聞くような上ずった声を出す。そんな声もいいなと思いながら、俺は答えた。
「……俺、美大を受ける時の実技試験の絵にお前を描きたい」
「え?」
「それまで、お前の絵をこれでもかってくらいたくさん描きたい」
「直樹……」
「それで受験が終わっても、ずっとお前の絵を描きたい」
「……」
「ずっとずっと、いろんなお前を描きたいって思ってる。だから、ずっと一緒にいたい……」
勢い任せだったかもしれないけど、これが素直な俺の気持ちだった。
『あいつ』と出会ってから、何もかもが色づくように変わったと思う。こんなに前向きな気持ちになれたのも、初めてだ。ついこの間まで低レビューを付けるにふさわしい人間だと位置付けてきたのに、『あいつ』のおかげでちょっとはマシな人間になれたような気がした。
「その調子だよ、直樹……」
俺の腕の中にすっぽりと収まっていた『あいつ』から、そんな小さな声がぽつりと聞こえてくる。それと同時に、何だかその腕の中がちょっとずつ軽くなっていってるような気がしてきた。
「自信持ってね、直樹」
小さな『あいつ』の声が、さらに聞こえにくくなる。俺は必死になって耳を傾けた。
「直樹の絵はこれから先、本当にたくさんの人を感動させていくの。私、知ってるんだから」
「……」
「でも、やっぱり嬉しいなあ。そんな直樹に、これからも絵を描いてもらえるなんて」
「うん、そうだよ。だから」
一緒にいたい、もう一度そう言おうと『あいつ』の顔を覗き込んだ時だった。『あいつ』も俺の顔をぱっと見上げてきて。
「昨日は言いそびれちゃってごめん。直樹、また明日ね……!」
その瞬間だった。確かに腕の中に閉じ込めていたはずの『あいつ』の姿に霞がかかり、水蒸気みたいに消えてなくなったのは。
そして、それとほぼ同時に、俺の意識にも霞がかかって何も分からなくなって――。
「……お帰り、直樹。もう、いくら美大受験を認めてもらったからって、いきなり走り出す事ないでしょう? そういう情熱的なところもお父さん似だからいいけど」
気が付くと、俺は自宅の玄関の前に立っていて、母さんに出迎えてもらっていた。
あれ? 何でだ? だって俺、ついさっきまで学校にいなかったか? それから『あいつ』と一緒にいたんじゃなかったのか……?
玄関越しに振り返った外はもうとっくに夜になっていて、どこにもオレンジ色の景色は見当たらなかった。
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