第77話

「下手の横好きがって思うかもしれないし、学費どころか受験料すら目玉が飛び出るくらい高いって事も承知してる。でも、挑戦してみたい。お金が足りないって言うなら、今からでもバイト頑張るから」

「……実技試験の他に、筆記試験だってあるんでしょ? そんな暇がどこにあるの?」


 それに、と母さんは進路希望票から目を離して、まっすぐ俺の方を見つめてきた。


「直樹。あなたは確かに絵はうまい方でしょうけど、しょせんは独学でしかないわ。美大を受けに来るのは、その段階でものすごい高みにいる人達ばかりよ。あなた、そんな人達と肩を並べられるっていうの?」

「……そんなの、知った事じゃない」

「え?」

「かなり厳しいって事くらいは分かってる。でもそれは、周りの連中に押されての事じゃなくて、自分自身の実力が伴うかそうじゃないかって話だから」


 今の自分の気持ちを言葉にするには、こんなものじゃ全然足りない。もっと、もっとうまく伝えられる言葉はないのか。それを考えあぐねて押し黙っていると、母さんの口からふうっと深いため息が漏れ出る音が聞こえた。


 呆れられる事は承知の上で話したものの、露骨な態度を見せられるとやっぱりきついものがある。いっそ「何考えてるの、バカ言わないで」と叱ってもらえたら楽だったかもしれない。


 だが、次に聞こえてきた母さんの言葉は、そんな類とは全くの真逆だった。


「直樹。やっぱりあなた、お父さん似だわ」


 そう言った母さんの顔はとても優しい微笑みを浮かべていた。


「お父さんが生きてて、今の直樹を見たらきっと喜ぶんじゃないかな。『さすがは俺の息子だ』とか言って、自慢げに胸を張る姿が目に浮かぶわ」

「母さん……」

「お金の事は心配しなくていいから、全力で頑張りなさい。その結果がどうであれ、お母さんは『さすがは私の息子ね』って自慢するから」

「うん、ありがとう」

「ところで、この第三希望の大学なんだけど」

「ああ。それはただの穴埋めっていうか、滑り止めにもしないつもりだから」


 進路希望票の第三希望欄に書いたのは、前の分で第一希望にしていた大学の名前だった。今の分の第一、第二希望の美大以外は考えないつもりでいたが、ぽっかりと空いてしまった第三希望欄を見たら、何だか少し寂しさを感じてしまい、適当に書いただけのものだ。


「美大、頑張って受かるから大丈夫だよ」


 昼休み、『あいつ』に言ってもらった「大丈夫」を俺も繰り返す。すると、何だかとても不思議な気持ちになった。


 特別な言葉でもないし、これまで俺自身、何度も気軽に口に出してきた。でも、『あいつ』の声で紡がれた「大丈夫」は全く違う。何だか意味に強みが増すというか、どんなに難解な局面に出くわしても乗り越えていけるという確かな自信と勇気を与えてくれるような……そんな、温かくて心強いものになるんだ。


 それが伝わったのか、母さんはやがて「……うん、分かった」と言ってくれた。


「お母さん、応援してるからね」

「ありがとう」


 ひと言の礼を言うと、俺は勢いよく居間から走り出し、そのまま玄関を飛び出した。


 家の前のあぜ道をひたすら走り、学校へと向かう。夕暮れがかった中のあぜ道はどこもかしもがうっすらとオレンジ色に染まっていて、農作業を終えて帰路に着く近所の人達の顔を綻ばせていく。


「よう、直樹。学校に宿題でも忘れたんかぁ?」


 すれ違いざま、二軒隣の渡辺さんちのおじさんにそうからかわれたが、俺は何も答えないでひたすらまっすぐ学校へと向かう。


 もしかしたら、勝も一緒にいるかもしれないと一瞬考えたが、学校の花壇の前にいたのは『あいつ』一人だけだった。

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