第64話
『少し遅れるくらいなら、大丈夫だぞ? 花火大会が始まるまで結構余裕あるし、バスだってまだあるから』
「……違う、そうじゃなくて」
『じゃあ、どうしたんだよ?』
「お願い、今日の花火大会には行かないで」
『……は?』
「絶対に行かないで、行っちゃダメ」
それはお願いというより、もはや懇願だった。『あいつ』のすぐ側にいるせいか、何が何でも行ってほしくないという切実な思いまでひしひしと伝わってきて、胸が苦しくなってくる。だからだろう、俺まで「絶対に勝を止めなくては」という気持ちになった。
だというのに、勝のバカ野郎ときたら。何か紙のような物が握り潰されたかのような、くしゃりという音が微かに聞こえたと思ったら、『……何で?』と不機嫌さを全く隠そうとしない声でそう返してきた。
『何で行っちゃいけねえの? つーか、お前は? お前は来ないの?』
「私は、行けない」
『あいつ』がスマホの向こうにいる勝に向かって、小さく首を横に振る。そればっかりはさすがに感じ取ったのだろう、勝はさらに声を低めた上に嘘を並べ立てた。
『何言ってんだよ、直樹だって楽しみにしてるのに。帰り道も直樹と一緒に送っていくし、せっかくの花火大会なんだから行こうぜ』
「……嘘だよね、それ」
『え?』
「今、勝君の隣に、直樹はいないでしょ?」
そう言って、『あいつ』がちらりと俺の方を見てくる。その目が「決して声を出さないで」と言っているふうに見えて、俺は押し黙るしかなかった。
「だって」
嘘を暴いた『あいつ』のぴしゃりとした物言いに、勝はぐうの音も出す事ができないようだった。だが、それを機と捉えたらしい『あいつ』の次の言葉は、あまりよく意味が分からないものだった。
「だって、私は直樹のいる所にしか出てこられないから」
『は? 何言って……』
「だから、お願い。花火大会には絶対に行かないで。本当に、お願いだから……!」
はあ、はあっと苦しそうに息が切れるような音が聞こえた。見れば『あいつ』は胸元を押さえて、その口元もぱくぱくと鯉のように動かしている。過呼吸になりかけているのかもと思った俺は、慌ててスマホの通話を切った。
「おい、大丈夫か?」
再び背中をさすってやるが、『あいつ』はなかなか落ち着きを取り戻す事ができない。応急処置として楽な体勢を取らせるのがいいと聞いた事があったから、とにかく町役場の中まで連れていき、空いているスペースを借りようと思い立った時だった。
「お願いです、神様。どうかお願いします……」
セミの鳴き声の合間の中、そんな『あいつ』のか細い声がかろうじて聞こえてきた。
「どうか、どうか勝君を助けて下さい……。どうか勝君を守って下さい……」
「……」
「お願いです、神様。どうか勝君が無事でありますように……」
何とか町役場の中まで連れて行き、呼吸が落ち着くまでの十分かそこらの間じゅう、『あいつ』はずっと勝の無事を祈り続けていた。俺は何もできず、ただそんな『あいつ』を見ているだけだった……。
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