第65話
「あら、お帰り直樹。ずいぶん早かったじゃない」
結局、あれから俺は何もできないまま、町役場の人達に『あいつ』の事を任せて帰ってきてしまった。
本当は家まで送ってやりたかったけど、それはようやく呼吸が落ち着いた『あいつ』から頑なに拒否された。「大丈夫だよ、直樹」「私、一人で帰れるから」と何度も言われて。
まっすぐ帰る気になれなくて、町役場を出てそのまま学校へと向かった。電話で『学校にいる』と言っていた勝の姿が見えたら思い付く限りありったけの文句を言ってやるつもりでいたけど、その相手はもうとっくにいなくなっていて……。
無性に腹が立ったけど、特に萎れた様子など見受けられないパンジー達には何の罪もないから、いつも通りに世話をして、スケッチもして家へと戻った。
まだ夕方と呼ぶには早すぎる時間に帰ってきた俺を見て、母さんが不思議そうに声をかけてくる。俺は「うん……」と生返事をしながら、靴を脱いだ。
「今日は何も描いてこなかったの?」
無造作に置いたスケッチブックを見て変に思ったのか、母さんの首がこてんと傾げる。俺は「いや……」と答えた。
「パンジーだけ描いてきた」
「そう……。ねえ、今日の晩ごはんのおかず、煮物にしようと思うんだけどいい?」
「具は?」
「あんたの好きな筑前煮」
「いいね」
「じゃあ、決まりね」
嬉しそうに微笑んでから、母さんがパタパタと足音を立てながら奥の台所へと向かう。好物の名前を聞いてちょっと気分のよくなった俺は、たまには手伝ってやろうかと考えながら、まずはスケッチブックを自分の部屋に置きに行った。
結論から言えば、この日の筑前煮は最高の出来だった。
母さんは相変わらずの料理上手で、見た目も味付けもそこら辺の料亭にだって引けを取らないんじゃないかと思えるほどだ。一度、半分以上本気で「うちを改装して、店を開いてもいいんじゃないか」と勧めた事もあったけど、いろいろと面倒だからとやんわり却下された。
我が家は基本的に、居間のテレビをいつだって点けっぱなしにしている。隣家とは少し離れているから迷惑にならないし、そもそも高校生になった息子と母親との会話なんてそう何時間も続くものじゃない。かといって仲が悪いという訳でもないから、会話が止まってしまうと多少なりとも気まずいものがある。
だから話題作りの一環として、この習慣は非常にありがたい。さっきの『あいつ』の言葉を聞いてしまっていては、なおさらだった。
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