第58話

俺の中の『あいつ』への印象が大きく変わったのは、夏休みもあと三日で終わる最後の日曜日の事だった。


 この日、俺は夕方過ぎに学校に行く予定だった。夏休み中は家の手伝いをする事が多くて時々パンジーの世話をしに来れない勝は、前もってLINEでその事を知らせてくるんだけど……。


『今日のパンジーの水やりは、夕方くらいにしてくれね?』

『昨日うっかりしちまってさ、ちょっと多く水をやりすぎたかも(汗)』

『ついでに葉が萎れてないか、きっちり見てくれよ。スケッチも頼むわ』


 珍しい事もあるもんだと思った、「農業第一」がスローガンみたいな勝がそんなヘマするなんて。確かに昨日は俺が一番遅く学校に着いてしまって、その時にはもう勝も『あいつ』もパンジーの水やりを済ませてしまっていたけれど。


 まあ、勝もまだ勉強中なんだろうし、たまにはそんな事もあるよな。夕方までの時間を適当に潰そうと、昼食を済ませた俺は、スケッチブックを持って家を出た。


「直樹、どこに行くの?」


 玄関先で靴を履いている俺の姿を見かけた母さんに声をかけられ、特に行き先を考えていなかったものの、何となく「城跡」と答えた。子供の頃から行き慣れている場所だから、今さら特に何かしら感慨がある訳でもなかったけれど、そこら辺よりは高台に位置しているから大きな風景画を描くにはもってこいだ。そう思った俺の足は城跡公園へと向かっていた。


 久しぶりに、この時間に一人で行動する事に少なからず解放感があった。決して飽きたりしていた訳ではないが、ここ数日はずっとパンジーや勝、そして『あいつ』ばかりを描き留めていたから、ちょうどよかった。大きな何かを描きたいという衝動に駆られていたんだ。


 何だか、ワクワクしていた。ほんの少し前まで、自分の画力が伸びていない事に悩んでいたっていうのに。あんなにも、俺という人間はつまらなくてどうしようもない奴だと低レビューを付けていたっていうのに。


 それが今では、描きたくて描きたくてどうしようもないって気持ちになっている。そういう意味では、やっぱり俺って奴は単純そのものなんだろう。でも、そんな気持ちになれたのは、俺自身があれこれとあがいた上での結果ではなく、ひとえに『あいつ』のおかげだと思った。


 明るくてまぶしい笑顔の『あいつ』を見ていると、自分の悩みがいかに小さくて、乗り越える事なんて実はそんなに難しくなかったんだと気付かされた。屈託なくはしゃぐ『あいつ』の声を聞くだけで、ずいぶんと心が安らいだ。


 もし今度、勝がパンジーの世話をしに来れない日があって、学校で二人だけになったら、『あいつ』をモデルに等身のデッサンを描いていいかどうか聞いてみようかな……。


 そんな事を思いながら、城跡公園の入り口に差しかかる大きな道に入った時だった。そこで、あいつがぼんやりと入り口の奥の方を見上げながら突っ立っている様子が視界に入ってきたのは。

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