第57話

二人が全ての苗を植え終えるのとほぼ同時に、俺は一枚の絵を完成させた。勝と『あいつ』が花壇の前で笑い合って作業をしているという単純な絵だったが、それを見て『あいつ』はうわあっ……と大げさなくらい感嘆の息を漏らした。


「直樹、本当に上手! 見てみて、勝君。この目元とか、すごくよく描けてるよ」

「……いや、俺はもうちょっとイケメンだろ。直樹もそこら辺を意識して描けよな~?」


 この時になって気付いたけど、『あいつ』は勝の事は君付けで呼ぶのに、何故か俺の事は呼び捨てだった。別に「直樹君」が呼びにくい訳でもないだろうに、『あいつ』は屈託のないまぶしい笑みを浮かべながら「直樹」と呼ぶ。どうしてかは分からなかったけど。


 勝も特に気にしていないようだったから、俺の方から特に「何で?」と聞く事もなかった。嫌悪感なんて欠片もなかったし。


「お前、鏡を見てからそういうセリフを吐けよな」


 勝の言い分に少し呆れながらそう返してやれば、ふとスケッチブックにオレンジ色の光が差し込んできたのが見えた。思わず肩越しに振り返ってみれば、校舎から見える山々の間にいつのまにか色を変え始めた太陽が沈んでいくのが見えた。


「……いっけない、もうこんな時間!」


 黄昏時たそがれどき独特の時間をゆっくり味わおうという気分に浸りたかったのに、そんな俺の耳に『あいつ』の少し大きな声が響いて届く。振り返れば、『あいつ』が慌てて土色に汚れた軍手を外している様子が見えた。


「ごめんね、もう帰らなきゃ!」


 『あいつ』の両親は仕事で忙しく、朝早くから家にいないという事などざらだったようで、何曜日のどの時間に約束しても『あいつ』は嬉しそうに出向いてきた。なのに、いつもこの時間帯になると、やたら慌てて帰り支度を始めるんだ。


 女の子だし、きっと門限が厳しいんだろう。そう思えば特に引き留める理由も見つからず、俺も勝も「分かった」と頷くしかない。


「後片付けの事なら気にするなよ、俺と直樹でやっておくから。その代わり、明日の水やりは頼むな?」

「また十時くらいに、ここで待ち合わせでもいいか?」


 俺と勝の言葉に、『あいつ』は「うん」と小気味いい返事をする。そして夕日の中、くるっと全身を翻して校舎の外へと駆け出した。


「それじゃ、勝君に直樹。また明日ね!」


 こっちに向かって大きく手を振り上げながら、『あいつ』は夕日の中へと消えていく。もう何度も繰り返されてきた事なのに、俺と勝はそんな『あいつ』に一度も「また明日」と返した事がなく、いつも小さく手を振るばかりだった。


 他愛のないあいさつなんだから、気軽に返してやればいいじゃないか。その方が、きっとあいつも気分よく帰れる事だろう。


 だけど、それがどうしてもできない。何故かは全く分からなかったけど、むしろそんな事しちゃいけないという思いまである。


 まさか、こんな訳の分からない気持ちを勝まで抱いているはずがない。そう思ってしまった俺は、勝に何の相談もする事なく、いつも黙って『あいつ』を見送っていた。

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