第54話

「親の仕事の都合で、引っ越してきました。卒業まで半年ほどですけど、よろしくお願いします」


 夏休み中、一回だけある登校日。俺と直樹しかいない三年生の教室に、担任に連れられて入ってきた『あいつ』は、同年代の女の子を見慣れていないからという理由を差し引いても本当にかわいく見えた。この町の生まれではない、よその土地から来た人なんだと思ったせいもあって、俺と勝は緊張でカチコチになってしまったというのに、『あいつ』ときたら。


「西本直樹君に、菅谷勝君だよね。よろしく!」


 何の屈託もなく、改めてそう言ってきてくれた『あいつ』の笑顔は本当にまぶしかった。まさかこの瞬間から、俺達全員の初恋が始まっていたなんて思いもしなかった。





 大したものもないというのに、この町を案内してあげなさいという担任の言葉に従い、俺と勝は高校からの帰り道がてら、『あいつ』と一緒に連れ立って歩き出した。


 とはいうものの、実際に案内をしているのは口達者の勝だけで、俺は二人の後を黙ってのろのろとついていってるだけだ。それに案内といっても、この辺はあぜ道の横に延々と広がる町の人達の畑や田んぼしかないから、よそからやってきた『あいつ』が喜んで聞いているとは到底思えなかった。


 ああ、早く家に帰って絵を描きたい。どうせまた納得もいかない下手くそな仕上がりになるんだろうけど、日課なんだからと、もはや義務や強制に近いようなものを自分に課している。


 そんなふうに思いながら、スケッチブックに視線を落とした時だった。ふいに「おい、直樹」といらだたしげに俺を呼ぶ勝の声が聞こえてきたのは。


「お前、何か絵を描いてやれよ」

「えっ……」

「描きたくて仕方ないって顔してるじゃん。せっかくの出会いに一枚描いてやれば?」


 何言ってるんだ、勝の奴? と、素直にそう思った。


 これまで好きなふうに町の風景を描いてきたものの、俺はただの一度だって他の誰かへ贈る為に描いた事はない。そりゃあ、絵を描く最初のきっかけになってくれた母さんには、中学に上がるまで描き上がるたびに見せてきた事はあるし、勝にだって何度覗き見されたか分かりゃしないが……。


 これまで描き溜めてきた絵は、全部自分の部屋の本棚か押し入れにしまい込んである。時々見直しをする為に引っ張り出す事はあるが、部屋の外に持ち出す事なんか絶対にないんだ。


 そんな俺のどうしようもない絵を、今日初めて会った転校生の女の子の為に描いてやれだって……? 何をどうすれば、そんな無茶ぶりを思い付けるんだ……?


 これが嫌がらせではないという事は、勝の性格上、よく分かっている。だからこそ厄介で、どうすればうまく断れるだろうかと考えあぐねていたら、「え、何々?」と『あいつ』が俺の持っていたスケッチブックを覗き込んできた。


「西本君、絵が描けるの? もしかして、美術部?」

「……いや。俺達、部活には入ってないから」

「そうなんだ。じゃあ、部活作っちゃおう!」


 この時、俺と勝の呆れた声がシンクロした。『あいつ』は人の話を聞かないところもあったけど、その実、的を得た言葉を選ぶのがとてもうまかった。


「その意味がないって決めるのは、他の誰かなの?」

「自分がやりたい事をやるだけなのに、それを他の人が『意味ないね』って言うのはおかしな事だと思う」

「自分で自分を信じてあげなきゃ、どんな事だって楽しめないんじゃない?」


 『あいつ』がこんなふうに言ってくれてなかったら、もしかしたら俺はそう遠くないうちに絵を描くのをやめてしまったかもしれない。父親と同じように、それまでせっかく描き溜めていた絵も全部処分してしまって、もっとつまらない人間になっていただろうし、何より葵生と出会う事は決してなかっただろう。


 こんなごく普通であった『あいつ』の言葉が、これからの俺を導いてくれたような気がする。きっと、それは勝も同じだったんだろう。あぜ道を先に歩き始めた『あいつ』の後ろ姿は、俺達には光り輝くランウェイを渡っているかのように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る