第48話
もし、この場に『あいつ』がいたら、きっと……いや、絶対にこう言って俺を叱り飛ばすだろう。「何やってるの、直樹! 私の事で、彼女さんを泣かしちゃダメじゃない!!」と。
俺はもう一度「ごめん」と謝ってから、首を横に振った。
「でも、違うんだ。悪い意味でそうしてきた訳じゃない。今までで一番変に思うだろうし、うまく説明もできないから、信じてもらえないかもしれないけど」
「直樹……?」
「確かに葵生が悩んでる通りだ。あのスケッチブックの子は、俺にとってかけがえのない奴だった。『あいつ』の存在は、昔の俺にはとてもまぶしくて、憧れで、とても大切だった……けど」
ああ、ダメだ。葵生の顔がまた曇りだした。しっかりしろ、俺。もっと上手に言葉を捻り出せ。あの不可思議で忘れられない日々を、目の前にいる大切な人を傷付けずに伝えられる最適解な言葉を……!
そんな時だった。ふいに、今朝の勝の様子を思い出してしまったのは。
あの時の勝の姿を見た時、俺は本当に悲しかった。
きっと、この町で『あいつ』の事を覚えてくれていたのは勝が最後だった。それなのに、あんなにたくさんの思い出を共有してきた勝まで、あんなにもあっさりと『あいつ』を忘れてしまった。
でも、今は例えスケッチブック越しだとしても、それに嫌な気持ちを抱いてしまっているとしても、葵生が『あいつ』の存在を心に留めてくれている。今となってはもう葵生だけが、俺以外で『あいつ』の事を知っている唯一の存在なんだ。
ごめん、勝。お前はもう覚えていないだろうけど、俺達三人で紡いで来たあの日々を俺は今から葵生に話す。もうこれ以上、『あいつ』の存在がなかった事にされない為に……。
俺はベンチから立ち上がると、手の中の缶ジュースの中身を一気に煽った。レモンの味とぱちぱちと弾ける炭酸で少し口の中が痛かったが、それを味わい尽くしてから俺は葵生を振り返った。
「行こうか」
「え、どこに?」
葵生がこてんと首を傾げながら「レポートはどうするの?」と尋ねてきた。
「ちゃんと調べないと、また美雪に怒られるよ?」
「いいよ、小原には叱られ慣れてる。それより、どうしても葵生を連れて行って、話をしたい場所があるんだ」
だから、頼む。最後にそう締めて、俺は葵生に手を差し伸べる。その瞬間、葵生は相当驚いたかのように全身を揺らしたが、やがておずおずと空いている方の手を伸ばしてきて、俺の手を取ってくれた。
思えば、葵生の手を握ってやるのはこれが初めてだったなと反省する。本当に今の今まで、恋人らしい事を一つもしてやれてなかった。
全部を話し終えたら、改めてもう一度謝ろう。そう思いながら、俺は葵生の手を引いて二の丸広場を後にした。
目的の場所に着くまで、俺達はただのひと言も口を開かなかった。向かう道すがら、誰ともすれ違う事もなく、なすがままについてきてくれる葵生の足音と時たま吹いてくる風の音だけが、俺の耳に優しく届いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます