第43話

「……いや~、さすが田舎の朝食って感じだったな。ボリュームがあるっていうか、ごちそう感が半端なかったわ~」


 家を出て、城跡へと向かう道すがら、渋川ゼミの一人が膨れた腹をさすりながらそう言っているのが聞こえた。昨日はあんなに「電波は通ってるのか」と文句を言いながらスマホを振り回していたくせに、母さん特製の朝食を目にした瞬間、「こういう田舎飯が、今は逆に映える」とか言い出して何枚も写真を撮っていた。


 せっかくの焼き魚や炊き立てのごはんが冷めてしまうだろと思って注意しようとしたが、俺より何テンポも早くそう切り出してくれたのは、葵生だった。「直樹のお母さんに失礼じゃない、早く頂きましょうよ」とか言って。葵生のそういう一面が、ちょっと嬉しかった。


 葵生と初めて会った日の事は、『あいつ』の時と同じくらいによく覚えている。


 同じ学部の箕島にたまたま『あいつ』の絵を描いているところを見られた上、ほとんど強引に美術系のサークルに連れて行かされた。そこの部長もまた強引な奴で、あれよあれよという間に『あいつ』の絵をどこかのコンクールに出す事になり、数ヵ月後には何故か特別賞をもらっていた。


 その事自体に、格別な思いがあった訳じゃない。誰かに見てもらいたくて『あいつ』の絵を描いていたんじゃないから。俺自身が、絶対に『あいつ』の事を忘れないようにする為だ。


 そんな俺の絵を、じっと真剣な眼差しで見てくれていたのが葵生との出会いだった。


『この子があんまり素敵だったから、つい見とれちゃってて……』


 葵生がそう言ってくれた時、どんなにほっとしたか分からない。町の人や母さんが『あいつ』を忘れていく中、葵生がその存在を心にめてくれた事がどれだけ俺を安堵させてくれた事だろう。


 『あいつ』がいた日々は、決して夢や幻なんかじゃなかったんだと、自信を持つ事ができた。だからこそ、俺はいつだってスケッチブックや鉛筆を持ち歩いて、インスピレーションの赴くままに『あいつ』の姿を描き続けた。


 そんな日々の中での葵生からの告白は、俺にとってまさに青天せいてん霹靂へきれきだった。普通に『何で、俺なの?』と聞いてしまったし、それに対する葵生からの返事は『直樹を好きになったから』というありきたりなものだったから。


 短い時間の中で、かなり悩んだ。持っていたスケッチブックの中にいる『あいつ』と目を合わせたけど、当然ながらアドバイスや発破掛けなどの返事がもらえる訳がない。それでも、必死に問いかけずにはいられなかった。まだお前の事を吹っ切れていない俺が、本当に葵生の純粋な気持ちに応えていいものなのだろうかと。


 最終的に『分かった』とは答えたものの、いまだに俺は葵生に対して『あいつ』以上の気持ちを抱いた事がない。恋人らしい事をするのはおろか、「好きだ」のひと言すら言ってやった事がない。


 誠実じゃないと言われれば、それまでだろう。でも、そのひと言を先に聞いてもらいたかった『あいつ』がいない事で、俺の気持ちは宙ぶらりんとなっている。葵生より先に、まずは『あいつ』にという気持ちをどうしても消し去る事ができない。


 そして、そんなわがままに葵生が勘付いているのかいないのかは分からないが、あえて何も言ってこようとしない優しい彼女に、俺は甘え切っている自覚がある。


 本当なら、すぐにでも葵生が望んでいる言葉をいくらだって言ってやるべきなんだろう。そんな事すらできないのであれば、彼女の為にもこれ以上は……と何度も考えたが、それもできないでいる。


 今、俺以外で『あいつ』の事を強く心に留めてくれているのは葵生だけだ。そんな葵生と離れたくない。あの時だって「留学なんてするな」と声を大にして言いたかった。


 もう少しだけ、時間が欲しい。あと、もうほんの少しだけ。今はもうどこにもいない『あいつ』だけど、この気持ちにきちんと踏ん切りを付けられたら……。その時は、どんな形になるにせよ、葵生としっかり話をしようと思っている。それがこんな俺にできる、精いっぱいの事だから――。

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