第42話

「と、とにかく、朝飯が終わったら、ちゃんと例の城跡には案内するから」


 大事なスケッチブックを焚き付けに使われてはたまらないと、俺は足早に小原の横をすり抜け、二階の自室へと続く階段を昇ろうとする。そんな俺の後ろから、追いかけてきた葵生が「直樹」と声をかけてきた。


「あの、さっきの男の人だけど……」


 つい、ぴくっと肩が震える。変わってしまった勝を見た事が想像以上に堪えていたらしい俺の両腕は、思いのほか力が入っていたんだろう。スケッチブックの表紙がほんの少し折れ曲がっていた。


「ああ、勝も言ってただろ?」


 そんな動揺を葵生にだけは知られたくなくて、俺は振り返りもせずに答えた。


「物心つく前からずっと一緒だった親友なんだ。まあ、お前と小原みたいなもんだよ」

「へえ、そうなんだ……」

「悪いけど、先に食堂に行っててくれるか? これ片付けたら、俺もすぐに行くから」


 葵生の「うん」という返事を置き去りに、俺はさっさと二階への階段を昇り切り、自室へと入る。三年近くもほったらかしにしていたのに、母さんがこまめに掃除や整頓をしてくれていたんだろう。高校を卒業して、この家を出ていった日と何ら変わらない風景がそこにあった。


 日が入って手元が明るくなるよう、南向きの窓のすぐ側に置かれた勉強机と本棚。その本棚の中には高校時代の教科書やノートの他に、これまでの俺の半生で描き続けてきた絵を収めた歴代のスケッチブックがある。


 俺は両腕の中に抱えていた最新のスケッチブックを、本棚の一番左端へとしまい込む。そしてゆっくりと両目を閉じて、『あいつ』の事を思い出した。


 ……うん、大丈夫。まだ、覚えている。俺はまだ、『あいつ』の明るくてまぶしい笑顔をこんなにも鮮明に覚えている。だからこの三年間で、何度も何度も『あいつ』の姿を描く事ができたんだ。


 それなのに、勝の変わる瞬間を目にした時、ちょっとずつ気になっていた違和感が決して勘違いではなかったという事に気付いてしまった。


 もう俺以外、誰も『あいつ』の事を覚えていない。短い日々だったけど、確かに『あいつ』は俺や勝と一緒にいたのに。俺達三人がはしゃいでいた姿は、町の人達はもちろん、母さんだって何度も目にしていたはずだったのに……!


 いったい、どういう事なんだ。何が起こってるんだとぐっと奥歯を噛みしめていたところで、階段の下から「直樹、早く降りてらっしゃい」という母さんの声が聞こえてきた。それと同時に香ばしくて懐かしい焼き魚の匂いもしてきたので、俺は後ろ髪を引かれる思いで本棚から離れた。

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