第三章

第41話

「……どこ行ってたのかなぁ、西本~? こんな朝っぱらから、そんなもの抱えてさ~」


 勝と別れて自宅に戻ったその瞬間、本当に心臓が止まるかと思った。玄関先で仁王立ちしながら俺と葵生を待っていたのは、同じ渋川ゼミで班のリーダーを務めてくれている小原美雪おはらみゆきであり、その顔はまさに般若を連想させるほどの怒りに満ちていた。


 正直、しまったとは思った。あれほど口酸っぱく、この合宿中はスケッチブックや鉛筆に指一本触れるなと言われていたのに、俺の故郷である田舎町に着いて二十四時間と経たないうちにもうその約束を破ったんだ。そろそろ渾身の一発をもらってもおかしくないかもしれない。


 そんな覚悟を決めた俺の前に立って庇ってくれたのは、葵生だった。


「ごめん、美雪! 私が一緒についていくのと一枚だけっていう約束でつい許しちゃったの! ここはどうか、私の顔に免じて!」


 この通りと、パンと音が鳴るくらいに勢いよく両手の手のひらを併せながら、葵生は小原に許しを請う。これが他の誰かだったら許してもらうどころか火に油を注ぐだけだったんだろうが、さすがは葵生の親友だ。小原は般若のような表情をすぐに緩めて、「仕方ないなあ」と組んでいた両腕もほどいてくれた。


「今回だけは許してあげるけど、次にまた同じ真似したら……」

「分かってる! 分かったから、もう勘弁してくれ!」


 この次の小原の言葉が簡単に想像できてしまい、俺は慌ててスケッチブックを両腕の中に抱え込んで守る。彼女の視線の先が、廊下の一番奥で眠っている古い釜戸を捉えていたから。


 小原は、俺の苦手な部類の人間だ。嫌いという訳ではないけれど、とても自己主張が強いというか、ひと言で言うならば皆の先頭に立ってぐいぐい引っ張ってくれるリーダータイプといった感じだろう。


 俺はこんな人間だから、渋川ゼミでの作業の時はそういう小原のリーダーシップの部分にだいぶ助けられているものの、やはり苦手意識は拭えそうにない。彼女を前にすると、どうしても委縮してしまって、うまく言葉が出てこなくなる。それどころか余計なひと言を口走って、かえって怒らせてしまうんじゃないかと思うんだ。


 ……いや、違うな。小原だけじゃない。きっと、それは葵生に対しても同じだ。葵生が海外への留学を決めたと話をしてくれたあの日だって、俺は……。

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