第16話
「あ、直樹……」
「……」
「お、おはよう……」
「おはよう、よく眠れたか?」
私がこくりと頷くと、直樹は「そっか」とほっとしたように息をついた。
昨日、直樹は夕飯の時間までずっと自分の部屋にこもり続けていて、出てきた時は右手の手のひらが鉛筆の芯で真っ黒に汚れていた。
あの少女のデッサンを描く時だけはものすごい集中力を発するようで、ほっといたらたぶん寝食も忘れて日がな一日描き続けるに違いない。できる事ならこんな感情なんて知りたくなかった。そんなふうに思っている事を悟られたくなくて、私は平静を装いながら話を続けた。
「直樹もよく眠れた? 昨夜は皆にビールを何杯も勧められちゃって大変だったね」
「大丈夫、あれくらいはどうって事ないよ。俺、酔った事ないし」
「そう、だったね……」
……いや、ダメだ。うまく取り繕えない。視界の端に直樹が持っているスケッチブックとペンケースがちらちらと留まって、きちんと会話が成り立っている自信がない。
何だか、直樹の隣にあの少女が寄り添っていて、優越感たっぷりの表情で私を見つめているような……そんなあり得ない妄想めいたものが頭の中を占めそうになり、それが恐ろしくなった私はほとんど勢いのまま「直樹、そんなの持ってどこ行くの?」と聞いてしまった。
「も、もうすぐ朝ごはんだよ? 皆も起きてくると思うし……」
「俺、朝飯食べない派だって葵生知ってるだろ?」
「それはそうだけど、この合宿中くらいは一緒に」
「いや、いいよ。城跡行く前に何枚かデッサン描きたいし」
じゃあ、後でなと私に背中を向けて玄関口の方へと向かう直樹。私は急いで直樹の後を追った。
歩幅が広いせいで足の速い直樹は、私が玄関口で追い付いた時にはスニーカーの靴紐を結び終えていた。ここまでされるともう意地になるというもので、私も下駄箱から自分の靴を取り出して直樹の横に座った。
「私も行く」
「……は?」
「仮にも彼女が自分の地元に来てるっていうのに、ほったらかしにするなんてあり得ない。直樹、言ってくれたじゃない。私に自分の地元を見てほしいって。忘れちゃった?」
「……」
「それに私は、直樹のお目付け役としても来ているの。このままデッサンに夢中になってさらにレポートを疎かにするような事になったら、美雪達にどれだけの迷惑がかかるか分かってる?」
「……っ……」
痛いところを突かれたとばかりに、直樹が言葉を詰まらせる。何だか卑怯な言い方をしているようで罪悪感が出てくるが、こうでもしないと直樹にどんどん置いていかれてしまうような気がしてならなかった。実際、留学で置いていってしまうのは私の方なのに。
「分かった」
私がしっかり靴を履き終えたタイミングで、直樹が口を開いた。
「一枚だけ。一枚だけ描いたら、すぐ戻るから」
「見張ってていい?」
「……うん。描いたら、ちゃんと朝飯も食べるよ」
そう言って、直樹はすくっと立ち上がる。そして私も後に続いて立ち上がるまで、歩き出すのを待っててくれた。
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