第6話

大学の女子寮に戻った私は、自室に入るなりベッドの真ん中にどさりと倒れるように寝転んだ。

 

 何だか全力疾走でもしてきたみたいに、全身が重くて仕方ない。そんなに動いた覚えはないのにと思ったものの、すぐに「ああ、これが気疲れというものなのかも」と考え直す事ができた。


 本当にこれが気疲れになるなら、ずいぶんと前からあったものなんだなあと苦笑いを浮かべる。それだけ長い間、私は直樹との関係について悩んでいた事になるんだと思うと、ほんのちょっとだけ感慨深い。今までの短い人生の中で、ここまで私の心をかき乱してくれたのは直樹の他にいなかった。


 確かに美雪の言う通り、私達は普通の恋人とは違う面が多くあるのだろう。思い返してみれば、ちゃんとしたデートというものすらした事がない。会うのはほとんど大学の中で、たまにその辺のファミレスか喫茶店に入る程度。同じく男子寮で暮らしている直樹の部屋には、当然だが行った事はない。


 そしてどこにいても、直樹は例のスケッチブックを持っていた。今日はたぶん、あの大きなリュックサックの中にでも入れていたんだろうが、直樹は何かしら思い至るとすぐさま手に取って、まるで逸るように少女のデッサンをいていた。


 特に拒まれるような事もなかったので、直樹が夢中になって描いているその様を、私は隣でよく見ていた。


 シャッ、シャッと濃い鉛筆が少しざらついた画用紙の上を滑るように動いて、まるで魔法のように一人の少女をえがき出していく。くっきりとアーモンドの形をした目元にすっきりとした鼻筋、そして少し厚めではあるが全体的に小さめな唇の右端にほくろがあり、肩までのセミロングが本当によく似合っている。同じ女の目で見ても、間違いなく美少女であると言えるだろう。そんな少女の今にも泣きだしそうになっている儚い顔や、不機嫌そうにむくれている顔、小さな子供のようにはしゃいでいる顔、そしてとても幸せそうに微笑んでいる顔を、直樹は何枚も何枚もデッサンに起こしていた。


 最初はそんな彼を微笑ましく思って見ていたのに、「違う、そうじゃない」と気付いたのはいつだったか。すぐ隣に私という恋人がいるにもかかわらず、直樹の視線を独り占めしているのはスケッチブックの中にいるあの少女だ。彼女だけが、あの仏頂面で無愛想な直樹を限りなく夢中にさせている。そう分かってしまったら、あっという間に嫌な感情が私の心の中を占めていった。


 バカバカしいと何度思ったか知れない。彼女は、たかがスケッチブックの中にしかいないデッサンに過ぎないのにと。そんな相手にこんな感情をぶつけたって仕方ないし、現実に存在しない彼女より、直樹のすぐ隣にいる私の方がそもそも圧倒的に有利じゃないかと、いつも自分に言い聞かせてきた。でも、そんな私の努力なんてムダだと言わんばかりに、直樹の視線はいつもあの少女に向けられてばかりだった。


「いまだに『好きだ』のひと言も言ってくれないような奴が、そんな洒落た事言えるはずないもんね」


 ふいに美雪の言葉が頭の中に蘇ってきて、よけいに気が重くなる。彼女の言う通り、私は直樹からただの一度もそういった言葉をもらった事がない。それはまるでこっちの役割だと示されているかのように、いつも私からの一方通行だった。「好きだよ」という言葉はもちろんの事、待ち合わせの時間や二人で食べるものを決める時など、いつも私ばかりで。だからこそ、せめて今日だけはと思っていたのに。


「反対してほしかったなぁ……」


 うつぶせていた体を向き直して、天井を仰ぐ。その際、右目の目尻から涙が一筋だけ頬まで伝って流れ落ちていったが、こうこうと照らす蛍光灯を見てまぶしかったからに違いないと無理矢理自分を納得させる事に忙しくなっていた私は、美雪からLINEが来ていた事になかなか気付く事ができなかった。

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