第114話

「兄さん、こんばんは♪」


 営業開始からだいぶ時間も過ぎ、そろそろホールの中が盛況に差しかかってきたかと思った頃、『Full Moon』の入り口ドアでそう声をかけられた拓海は、実に呆気に取られてしまった。おいおい、昨日の今日だぞ。マジでどういうつもりだ。


 声をかけてきた智広の後ろでは、これ以上ないほど気まずいといった表情の松永が佇んでいる。それは拓海とて同じだ。今朝の電話のやり取りを考えれば最低でも一ヵ月、できる事なら永遠に顔を合わせたくなかった。


「先に言っておく、私は再三に渡ってお止めした」


 じろりと見てくる拓海と視線を合わせづらいのか、松永はふいと顔を逸らしながらバツが悪そうに言った。


「昨日のお疲れも残っているし、お食事もまだ満足に召し上がられていない。それでも、どうしてもお前と話をしたいとおっしゃられてな」

「おっしゃられてなって、お前……」


 松永から視線を外して、拓海は智広を見た。まだ少し目の下にクマが残っているものの、顔色は悪いというほどでもない。昨日とは打って変わって、普通に見えるし……。


「兄さん、昨日のパーティーはどうだった?」


 様子を窺うように見つめる拓海とは違って、智広は相も変わらずニコニコと笑いながら話を続けた。


「僕、結構頑張ったんだよ。ちゃんと見てくれてた?」

「え……。ああ、まあな」

「じゃあ、どうして僕に挨拶なしで帰っちゃったの? 気がついたらいなくなってて驚いたんだよ? 一緒に食事したかったのにさ」

「は……?」


 智広のその言葉に、拓海は再び違和感を覚えた。


 こいつ、昨日のあの騒ぎ覚えてないのか? 自分であれだけパニクッておいて、何言ってんだ?


 あんなに取り乱して、子供みたいに大騒ぎして、これ以上ないくらいの大恥を晒してたんだぞ。佐嶋グループの頂点に立っているという男が。


 なのに、まるで何事もなかったみたいにケロッとしていて、気にしている素振りすら見せない智広の様子にはもうさすがに戸惑いを隠せなかった。


 まさか、こいつ……。拓海が何かを思いかけた時だった。


 ググゥ~……。


 盛大に大きな音が、その場で響いた。ホールのBGMなんかものともしないほどの大音量だ。


 それが智広の腹の虫の音だというのを拓海と松永が気付いたのは、彼が耳まで真っ赤になってしまっていたからだった。


「あ、あは……おなかすいちゃった。兄さん、何か注文していい?」

「……好きにしろ」


 少し後ろを振り返ってみれば、ちょうど笙を指名していた客のグループが会計をしようとしているところだった。「少し待て」とだけ告げると、拓海は空き始めたそのボックス席に向かって歩き出した。

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