第113話
あいつは、本当に恵まれている。父親とは不仲だったかもしれないし、母親もその父親と一緒に死んじまっただろうが、それでもあいつには唯一無二であり、絶対でもあると言い切れる味方が存在する。
拓海にとっては、それは新藤夫妻であり、同じように育ってきたミチであり、自分を慕ってきてくれる子供達だ。普通の家庭とは全く形は異なるが、人並みの温かい場所で皆と一緒に生きてこられて、本当に幸せだった。
だが、あいつは? 両親ともに恵まれて、何不自由ない家庭に育っただろうに、そこに今更必要ではないはずの自分を捜し求めていた。その理由は、きっと自分の出自と少なからず関係があるのだろうと、拓海はさすがに分かり出している。そして、人間一人捜し出すという道がどれだけ困難であるかという想像も、それなりに。
そんな智広を、きっとこの松永という男はずっと支え続けてきたに違いない。主人の志を共に信じ、いつかきっと拓海が見つかると確信に近いものを抱いて。そうでなければ、一介の執事がここまで協力的になれるものか? 感情的になって、自分を殴ってきたりできるものか?
拓海は、すうっと短く息を吸い込むと、それを次の言葉と一緒に吐き出した。
「あいつは? まだ具合悪いのか?」
『あ……ち、智広様か? ああ、まだお休みだ。朝方に一度目を覚まされて、少し朝食をとられていたが、また眠ってしまってな』
「そうか。あんまり無理すんなって言っとけ」
『え……』
珍しく、戸惑ったような声。そんな松永の声に、拓海はチッと舌打ちをした。
「ただ、言葉通りだ。深く受け取んな、俺はあいつを弟だなんて認めてない」
『分かった、ありがとう』
「礼を言われる筋合いはねえ、じゃあな」
相手に承諾させる隙を与えず、今度こそ拓海は終了ボタンをタップした。そして、しばらく液晶画面を見つめた後で、先ほど写っていた番号を登録してしまった。登録名は『松永』――。
「……何やってんだか、俺は」
ぽつりと呟く拓海だったが、起きた時の最悪な気分はいつのまにかどこかへ消えてしまっていたし、二日酔いの痛みもずいぶんと楽になっていた。
一方的に電話を切られたというのに、その場に立ち尽くしている松永の口元は優しい弧を描いていた。
自分の勝手な判断で電話をかけ、智広が強いた訳でもない謝罪の言葉を述べる羽目になったというのに、心が晴れやかになるのを感じていた。それは、まるであの日――まだ生まれたばかりの拓海を、この手でしっかりと抱きしめた時のものと全く同じだった。
「あの頃に戻れたらいいのにな。そしたらお前も智広様も、綾子様だって……」
松永のそんな小さな独り言は、誰にも聞かれる事なく空気の中に溶けていった。
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