第108話

「……騒がせてしまったな、すまん」


 あれから数十分後。ずっと喚き続ける智広を連れてラウンジから立ち去った松永が、次に着替えを済ませた拓海とミチの前に現れた時、ワックスでしっかりと整えていた髪と上着を少し乱した有様であった。よく見れば、右頬のあたりにうっすらと血が滲むほどのひっかき傷まである。「あいつにやられたのか?」と拓海が問いただせば、松永は少しの間を開けた後で苦笑を浮かべた。


「これくらい、別に大した事じゃない。智広様の方がよっぽど痛いに決まって」

「でも、ばい菌が入ったら大変です。よかったらこれ、洗ってますから」


 松永の言葉を途中で遮り、ミチがポケットからていねいに折りたたまれたハンカチを取り出す。そして受け取るまではこの手を引っ込めないとばかりに突き出し続けるので、観念した松永は「ありがとう」とミチの手の中からハンカチを受け取った。


「後日、弁償させていただきます」

「そんな、いいですよ。百均で買った安物ですし」

「いや、そういう訳にはいかない。改めて、智広様と一緒に『太陽の里』へ伺うから、その時に必ず」


 そう言って、ハンカチを右頬に当てる松永の視線は、正面に立っているミチよりもその斜め後ろに位置どっている拓海へと注がれる。拓海も拓海で、戻ってきた時からずっと松永の左手に収まっている書類の束が気になって仕方なかった。


 さっきの騒ぎで散らばってしまった書類は、その大半がぐしゃぐしゃのシワまみれになっていて、ひどいものなど踏み付けられたのか誰かの足跡までくっきりと残っている。それだけだったら拓海もそこまで気にする事もなかったが、書類の一枚に『児童福祉支援第一号モデル 太陽の里』などという項目を見つけてしまっては、決して無視する事などできるはずがなかった。


「あの、智広君と『太陽の里』に来るって……それの事でですか?」


 ミチも気付いて、ずいぶんと気になっていたようだ。ハンカチを手放して空いてしまった手の人差し指で、松永の持つ書類を指す。それに気付いた松永は、「ああ」と相槌を打ちながら、再び拓海の方へと視線を向けた。


「気になるか?」

「何を訳の分かんねえ事考えてんだってくらいにはなぁ」


 チッと舌打ちした後で拓海が答える。その舌打ちの音を聞いて、松永の口から長い長いため息が漏れた。まるで、そんな簡単な事も分からないのかと心底呆れたふうに。


「何だよ」

「……智広様の行動原理は、全てお前に繋がっている。何もかもお前の為だと言えば、最も分かりやすいか?」


 そう言うと、松永は書類を持つ手を拓海とサチに向かって突き出してくる。少しの躊躇の後、それを手に取ったのは拓海だった。

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