第107話
せっかく忘れないようにと、わざわざ右手に書いておいたのに! これなら絶対に兄さんに謝れると思っていたのに! この文字を消してないって事は、謝る事をすっかり忘れちゃってるって事だ。
そうか。だから兄さんは今、僕の目の前にいないんだ。だって、ついさっきまで壇上に立つ僕を見守ってくれてた。でも、僕がなかなか謝ってこないから怒って帰っちゃったんだ、きっと!
「……嫌だ、待って兄さん!!」
両手を大きく振って、智広は取り囲む男達を乱暴に突き飛ばした。男達は何歩かよろめいたり、中には勢いのあまり尻もちをついて悲鳴をあげる者までいたが、そんなのは知った事かとばかりに智広は駆け出す。その顔はひどい焦りの色ばかりを映し出し、きょろきょろと周りを見渡し続けていた。
「兄さん! 兄さん、どこにいるの!?」
ふいに騒ぎ始めた佐嶋グループの若き社長の姿に、ラウンジの中にいる全ての人々の視線が一気に集中する。楽しそうに弾んでいた歓談の声はざわめきへと変わり、怪訝な目と表情ばかりがその場を埋め尽くしていく様は、智広をますます混乱させた。
「ああ、うわああ……。兄さん、兄さん!!」
佐嶋グループの社長の口からどうも聞き慣れない単語が飛び交っていると、何も知らない招待客はますますざわめく。だが、ラウンジの出入り口近くまで移動していた拓海と由紀子は違っていた。混乱して喚き始めた智広の姿を見て、二人そろってざあっと血の気が失せた。
「あ、あいつ何やって……!」
「い、行きましょう拓海さん。普通じゃないですよ、あれは」
どう見たって、あれは様子がおかしい。とにかく何とかしなければと由紀子は思った。
すでに呆然とした状態から脱した何人かのマスコミ達が、カメラを用意し始めている。自分もその一端を担う身であるという自覚はあったが、さすがにあんな様子を見せる智広を取材のタネにするほどの気はどうしたって起きない。由紀子は拓海の右袖を思いきり掴んだ。
「拓海さん、早く!」
「……」
その一方で、拓海もまた混乱していた。確かにどう見ても今のあいつは普通じゃないが、この状況で俺が側に行ってどうなる? こんな大勢の前で、しかも面倒だと思えるモデルもいる前でそんな事をしたら、それこそ……。でも、だからといって……。
まるで床に根が伸びたように、足が動かない。どうするのが正解だと考えあぐねていれば、わあわあと騒ぎ続ける智広の目が、拓海を捉えた。そして。
「兄さん、いた! ああ、兄さあん!」
拓海を認識したのか、ものすごい形相で智広がこちらに駆けだしてきた。その目はひどく血走り、まるで襲いかからんとするばかりに両手を突き出して向かってくる。
おい、やめろ。こっちに来るな。俺も何を突っ立ってるんだよ。無視して、早くどこかに行けよ。そうだ、すぐそこのトイレにでも逃げ込め。
頭の中で何度もそう警告するのに、拓海の体はまるで動かない。足どころか、両手の指先一つさえ麻痺している。やめろ、動け。来るな、逃げろ。智広がすぐ目の前へと迫ってくるまで、拓海はまるで呪文のようにいくつかの短い言葉を繰り返していた。
だが、次の瞬間。
「智広様! お気を確かに!!」
ふいに、拓海と智広の間に大きくて厚みのある体が割り込み、向かってきていた智広を難なく取り押さえた。その際、拓海は急に突き飛ばされたような形になり、借りたものとは言え、かなりの値が張るであろうスーツ――主に右側を着崩してしまう。上着の下のYシャツがはだけ、傷痕の残る肩が丸見えとなった。
「あっ、くそ……!」
出入り口のドアの方までよろめいたものの、急いで右肩を押さえて傷痕を隠す。「大丈夫ですか!?」とすぐに由紀子が駆けつけ、心配そうに声をかけた。
「ええ、まあ」
短く答えて、拓海は先ほどまで立っていた所に目を向ける。そこでは、松永に全身を抑えられながらも懸命に謝る智広の姿があった。
「兄さん、ごめん! ごめんなさい!! 何で謝らなきゃいけないのかはすぐ思い出せないけど、僕がちゃんと謝るから!! だから、だからもう怒らないで下さい!! 母さんを許してあげて下さい、お願いです!!」
悲痛な表情で、ついには涙まで流し始めた智広。それに呆然としている拓海の姿を、一人の老人が大きく目を見開いて見つめていた。
「あの肩の傷は……。まさか、あれは
老人が呟いたその言葉は、智広が喚き続けていたおかげで誰の耳にも届く事はなかった。
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