第106話

一方、智広は心底困惑していた。


 挨拶のスピーチが終わったら、真っ先に拓海の元へと行くつもりだった、肝が据わっているとは到底言えない性分の自分が、こんな大勢の人達の前で堂々と最後まで話をする事ができたのは、拓海が――兄が自分を見てくれていると強く思えたからだ。


 僕が勝手にそう思っているだけに過ぎないけど、兄さんはいつだって僕の心の支えになっていた。だから、今度は僕が兄さんの心の負担を少しでも軽くする番なんだ。これまで兄さんが一人でしてきた苦労を、一緒に背負っていきたい――。


 智広の右手には、先ほどのスピーチの中で口にした児童福祉支援に関する事案をまとめた計画書が収まっている。一刻も、一瞬でも早くそれを拓海に読んでもらいたかった。


 拓海の行方を掴めた次の日から、松永と二人でずいぶんと話し合い、大事に計画を進めてきた。重役達から、大した儲けにもならないと何度反対を受けた事か。それでもなお、ここまで事を運べたのは、全て拓海がいてくれたから。


 なのに、先ほどから入れ代わり立ち代わり、いろんな連中が自分の周りを取り囲んで一歩も歩かせてくれない。先ほど視界に捉えていた拓海の姿は、いつの間にか見えなくなってしまっている。どこに行ったんだとあたりを見渡したくても、年嵩の男達の薄くなった頭ばかりが目に留まって全く見えない。


「……あの、そろそろいいですか。ちょっと挨拶したい人がいるので」


 延々と続くおべっかから逃げ出したくて、取り囲まれた窮屈な輪の中、智広はもじもじと身じろぎする。だが、その際、誰かの体のどこかにぶつかってしまったのか、右手に軽い衝撃が加わり、その拍子に持っていた計画書が全て足元の床に散らばってしまった。


「あっ……!」


 バサバサバサッ……。


 ずいぶんと軽い、紙の舞い散る音が智広達の間で響く。年嵩の男達の反応は様々で、「おやおや……」と呆れたような声をあげるだけの者もいれば、拾い集めようと反射的にしゃがみこむ者もいる。そんな中、智広はすっかり空いてしまった右手の手のひらをつい見てしまい、そこにうっすらとボールペンで書かれている文字に気が付いた。


『この間の事、兄さんに謝る』


 スピーチの緊張による手汗で所々薄くなっていたが、それでも何とか読めるその文字を見て……智広の顔色が一気に変わった。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう……!


 その五文字ばかりが頭の中を占め、足元の紙を構う事なく踏み付けてしまう。それらを拾おうとした男の一人が訝しみ、「社長?」と声をかけた。


「恐れ入りますが、足をどけていただけませんかな?大事な資料を踏んづけておられ……」

「ど、どうしよう! 僕、まだ謝ってない!!」


 ラウンジに流れる物静かなBGMが一瞬聞こえなくなるくらいの大声が、智広の口から溢れ出した。

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