第104話

おい。ふざけんなよ、おっさん。拓海は心の中でそう松永に毒づいた。


 何が、平気そうに振る舞っているだ。何が、心中はミチの比じゃないだ。何が、俺が見ているだけで千人力だって?


 ラウンジ中から割れんばかりの拍手が飛び交い、その中を悠々とした足取りでステージへと向かっていく智広のその姿は、こういう場にすっかり慣れ切っている人間が見せるものだ。子供の頃からこういう空気を吸うのが当然という生活を送ってきた者だけができる、余裕のある姿だ。


「……やっぱり、違うな」


 ぼそりと、そんな言葉が拓海の口から漏れる。


 あいつは、俺の弟なんかじゃない。俺は、あいつの兄貴なんかじゃない。


 何がどうなってるのか知らないし知るつもりもない、訳の分からない事情をもう聞くつもりもない。


 あいつは佐嶋グループの社長で、先代夫婦の息子。


 俺は『Full Moon』のNo.1ホストで、養護施設を営む先生と奥さんの子供。


 だから、もうこれっきりだ。二度と顔を見せるな、くそったれ。


 一口も付けなかったワイングラスをテーブルの上に置いて、拓海はラウンジの出入り口へと足を向けた。このままさっきの客室に戻って着替えたら、すぐにこの船を降りよう。そう思った時だった。


「皆様、ようこそ。佐嶋智広です」


 背中の向こうから、マイク越しに智広の声が追ってきた。


「今日は、僕にとって記念すべき日となりました。少し前から考えていた夢が、やっと実現できる時が来て、それをこうして皆様に祝福していただけるなど光栄以外の何物でもありません。本当にありがとうございます」


 ステージに背中を向けているので、拓海からは智広がどんな顔をしてそう言っているのかは分からない。だが、その声色から心底嬉しく思っている事だけは知る事ができた。


 そうかよ。そんなに新しい仕事ができるのが嬉しいのか。だったら、よけいに俺なんかに構うヒマないな。そうやってちゃんと社長やって、ぬくぬくと生きていけ。


 だが、「じゃあな」と拓海が心の中で告げたのと、何者かの腕が拓海の肩をがしりと掴んだのはほぼ同時だった。


「行かないで下さい、拓海さん。智広さんの言葉、ちゃんと聞いてあげて下さい」


 拓海は両目を大きく見開いた。細くて小さな手をしているというのに、決して行かせまいと渾身の力を込めて引き止めているのは、以前に自分を取材してきた女性記者だったのだから。


「あ、朝比奈さん……?」

「智広さんが本当に力を入れているのは、決して造船業ではないんですから」

「は……?」


 ステージの方に顔を向けたままで、朝比奈由紀子は言う。そして、彼女がそう言ったその意味は、次の智広の言葉で明確なものとなる。


「先ほど進行の方がお話してくれましたが、我が佐嶋グループは不慣れながらも、造船業に着手致します。ですがそれ以上に、僕がこれから全力で邁進していきたいのは児童福祉の発展です。私財を投じる事も視野に入れ、僕は様々な事情で苦労を抱えている児童達や、そんな彼らの支えとなっている人々の助けになるような仕事をしていきたいと思っています。若輩者ではありますが、温かく見守っていただければ幸いです」


 そんな言葉に驚いてステージを全身で振り返った拓海と、壇上で誇らし気に立っている智広の目が合った。智広は少しばかり離れた所に突っ立っている拓海に向かって、ゆっくりと笑みを浮かべてみせる。そして、口元だけでゆっくりと「ありがとう、兄さん」と呼びかけた。


 拓海は気付きたくなかった。その時の智広の両手が、緊張で小刻みに震えている事なんて――。

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