第98話
「あ、兄さん!」
先ほど、松永が降りてきた搭乗デッキから聞きたくなかった声が聞こえてきた。ああ、見つかる前に帰ろうと思っていたのに。
薄目になりそうなほど両目を細くしてそちらを振り返れば、満面の笑みを貼り付けた智広がはしゃぐようにデッキを降りてきているのが見えた。パーティーの最終チェックでもしていたのか、着ているのはずいぶんと高級そうなシワ一つない紺色のスーツだった。
「兄さん、来てくれたんだね!」
毎度毎度、こいつはオーバーだと思う。何で会うたびに、そんなに感情を爆発させて大喜びする? 少なくとも俺は、お前がそんな反応をするような現れた方をした覚えは全くないというのに……。
返事もせず、そっぽを向いたままの拓海の前に、智広が辿り着く。そして、何故か自分の右手の手のひらをじいっと何秒間か見つめた後で、突然ぺこりと頭を下げてきた。
「兄さん、この間はごめんなさい」
そして何を思ったのか、いきなり謝罪してきた。智広の斜め後ろに立ち位置を変えた松永も、彼のその言葉にぴくっと全身を震わせる。だが、いつものような口出しはしてこなかった。
「は……?」
何の事で謝られているのか全く分からず、拓海は短い音しか口から出せない。それに気付いたかは分からないが、智広は頭を下げたままの状態で言葉を続けた。
「この間、病院で……兄さんの事、僕分からなかったんでしょ? 本当にごめん、わざと無視した訳じゃないんだ!」
ばっと勢いをつけながら頭を上げ、必死な表情で見つめてくる智広の様子に、拓海は声が詰まった。
正直な事を言えば、拓海にとってそれはどうでもいい話だ。今、話を聞くまでほとんど忘れかけていた事だし、祐介の事ばかりが気がかりでそれどころでもなかった。だが、思い返してみれば、少し。ほんの少しだけ、何か変だなと感じたくらいだ。
「あ、あの時はね、僕……コンタクト外してたんだよ」
「……あ?」
「だ、だからっ、コンタクトを……」
急に口調が変わって、思いがけず低い声で返してしまったが、それでも智広は何とか伝えようとしてくる。まるで、大きな何かを隠す為に、下手くそですぐばれるような嘘をついている小さな子供のようだった。
「コンタクトないと、お前視力悪いのか?」
つい、会話を続けてしまった。一拍置いてその事に気付いた拓海が慌てて「今のはなしだ、忘れろ」と言いかけたが、それよりずっと早くミチの言葉が割り込んできた。
「もう、拓海ったら! 聞いた通り、ちゃんと謝ってるでしょ!? これくらいの謝罪、男なら素直に受け取りなさいよ!」
どんっと全身を寄せてきたミチは、その細い肩を拓海にぶつけてくる。ちょうど右肩のあの傷がある位置にぶつかって、何となくちりっと疼いた。
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