第95話
あの日、トメがブラックカードを差し出しながら話してきたのは、この土曜の夜に佐嶋家が主催で執り行う船上パーティーの事だった。
去年の暮れあたりから企画していたパーティーであり、智広はほんの小さな隙間すら見逃さないとばかりに、完璧な仕事をこなし続けていた。
だが、それもあと数日で終わるし、無事にパーティーが開催されるのを待つばかりという頃合いになって、面倒な事態が起こった。
パーティーには絶対欠かせないのは、腕利きのシェフ達が魅せる豪華絢爛な食事。智広はそれらにふさわしい最高のワインをと思い立ってしっかりと注文をしていたのに、開催までもう日がないという時に、その取引会社が突然倒産したのだ。
佐嶋グループの傘下に入っていない会社だった事と、提示されていた値段を振り込む直前に知った事が幸いであったが、直接取引をしていた社長と連絡が全く取れず、頼みにしていた最高級ワインも届かない。このままでは、智広ぼっちゃまが笑われ者になるとトメは涙に暮れた。
「後生でございます。このトメの全財産を使って、こちらのワインを買わせて下さいませ。これで足りなければ、生命保険だって解約してきますので」
シワだらけの震える両手で、ブラックカードを差し出すトメの姿を見て、拓海は困惑した。
長年、佐嶋家の家政婦を務めてきたのなら、それなりの蓄えくらいは当然あるだろうし、実際このカードが全財産というのも決して過言ではないだろう。
だが、ホストクラブに常備している酒類は店内で飲んでもらう為の物で、ボトルキープは受けていてもテイクアウトなどしていない。少なくとも、拓海はそんなサービスを見た事なかった。
どうする? 賢哉さんに相談してくるか? それとも事後報告で……。
もし、事後報告をする体でトメにワインを見繕ってやれば、その売り上げは全て拓海の成績になるだろう。だが、前例のないやり方で成績を上げるなんてホストとして邪道ではないか? そう考えると、生理的に受け入れがたかった。
やっぱり賢哉さんに相談するべきだと思い、拓海は事務室の方へと足を向ける。そして「ちょっと待ってろ」とトメに言うつもりだったが、何かに勘付いていたのか、すでに賢哉がこちらに向かって歩いてきているところだった。
「ようこそ、『Full Moon』へ。私は、オーナーの賢哉と申します」
賢哉はシャンパンタワーを頼んだ女社長へは全く目もくれず、まっすぐな足取りでトメの前まで来ると、片膝をつきながら自分の名刺を渡してきた。
渡されてきた名刺をトメは最初まぶしそうに眺めていたが、やがて目の前にいる男が拓海の雇い主だとでも気が付いたのか、深々と頭を下げてきた。
「拓海ぼっちゃまがお世話になっております。あの、急かつ不躾ではございますが、オーナー様にお願いが」
「どうぞ何なりと、マダム」
そう言って、賢哉は片膝を付いたまま、完璧な角度まで頭を下げた。
どれだけ練習しても、一瞬一瞬にまで気にかける優雅で美しさがみなぎる賢哉の身のこなしには敵わない。ホストをする為に生まれてきた人なんだなと、改めて思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます