第93話

「言うじゃないの、坊や……」


 怒りの感情を隠そうともせず、女社長が近付いてこようとする。それを見かねた紫雨が素早く彼女の前に回り込んで宥め始めたが、何度もこちらを見てくる目は明らかに不機嫌そのものだった。


『何、俺の太客にケンカ売ってんだ、この犬野郎が!』

『マジ許さねえ。後で絶対シメてやる』

『No.1ホストの俺をコケにしやがって……!』


 言葉にしなくても、紫雨の鋭い目つきがそう言っている。本当にいけ好かない奴ではあるが、今月の売り上げが逆転しない限り、今の自分に何ができる。せいぜい、これ以上笙がよけいな事を言うのを止めるくらいしかできないと、拓海が奥歯を噛みしめた時だった。


「金城の奥様、お戯れはそこまでになさいませ」


 ふいに、拓海と笙に挟まれるようにして座っていたトメがそう大声で切り出し、すくっとボックス席から立ち上がる。酔いが回っていてすぐに反応ができなかった女社長だったが、やがて見知っている顔だと分かると、「あら……」と声をあげた。


「確か佐嶋家の家政婦さん、だったわね。何故あなたがここに?」

「完全なプライベート……と申し上げたいところですが、こちらのお店に少々頼み事がございまして、智広ぼっちゃまの名代みょうだいとして馳せ参じました」

「あら、もしかして例の件? だったらこっちの席においでにならない? おいしいシャンパン飲ませてあげますわ」

「いいえ結構。もっといいものをこれから注文しますので」


 そう言い切ると、トメは小袖の袂から財布を取り出し、さらのその中からカードを一枚出してくる。とても高級そうなブラックカードだった。


「拓海ぼっちゃま、トメ一生のお願いがございます。どうか聞いて下さいませ」


 ブラックカードを握りしめたままで、トメがぺこりと頭を下げる。その両肩が小刻みに震えていた。


「おい、ちょっとこんな所で……やめろって」

「お願いでございます、拓海ぼっちゃま。智広ぼっちゃまの危機でございますゆえ……」


 拓海の制止の言葉を完全無視して、トメは「お願いします」を何度も何度も繰り返す。それは、オーダーストップの時間まで終わる事はなかった。






 二時間後。閉店後のミーティングで、ホストやスタッフが全員そろったフロアを満足そうに眺めている賢哉の姿があった。


 賢哉は今にも鼻歌を歌い出しそうなほどの上機嫌で、本日の売り上げリストをまとめた紙を眺めている。どこかにいる紫雨の、忌々しそうな舌打ちの音が聞こえた気がした。


「じゃあ、今日の売り上げ一位を通達する~」


 にこにこと笑みを浮かべたまま、賢哉が次の句を告げる。「拓海だ!」と。


「やったぁ! マジでおめでとうです、拓海さん!!」


 まるで自分の事のように無邪気に喜ぶ笙。賢哉も「まあ前例のない事だが、売り上げには変わりないからな」とまた喜んでいる。


 だが、拓海はこれから起こるかもしれない面倒事をいろいろと想定する事で忙しく、逆に他人事のように聞いていた。

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