第91話
笙の言う通り、トメは間もなくして『Full Moon』に現れた。前とは違う色柄の小袖をまとい、ゆっくりとした足取りで近付いてくるトメを入り口ドアの前で待っていた笙が、とても心配そうに声をかけた。
「いらっしゃいって言いたいところだけどさ、お年寄りが出歩いていい時間じゃねえだろ? どうやって来たんだよ」
「大丈夫ですよ、笙様。松永さんに車を出してもらいましたから」
そう答えてから、トメはふいっと外を見やる仕草をする。おそらく、近くの駐車場にあのリムジンを停めているのだろうと、笙の横に立っていた拓海は小さくため息をついた。
「……それで? こんな時間に何しに来たんだ?」
「拓海ぼっちゃま、お仕事お疲れ様でございます」
トメは拓海の質問に答える事なく、まずは深々と一礼する。そしてその横をするりとすり抜けると、何の躊躇もなく『Full Moon』のフロアの中へと進んでいった。
「マジで何しに来たんだ、あのばあさん」
ますます訳が分からないとばかりに、拓海は首を捻る。烏龍茶しか飲まなかったような年寄りが、こんな閉店時間ギリギリのホストクラブで何をするつもりだ?デイホームサービスと勘違いしてんじゃねえぞ。
そんな事を思っていた拓海の言葉に応えるかのように、笙が言った。
「何か困ってるとか言ってましたよ?」
「は?」
「あと、うちはテイクアウトできるかとも聞いてました。そんなにうちのカルパッチョ気に入ってくれたのかな?」
あれは俺も賄いで食った事あるけど、やっぱうまいもんな、なんてのんきな事を言っている笙だが、拓海はそれはそれで頭が痛くなった。デイホームサービスじゃなくて、どこぞのレストランか何かと勘違いしてやがる。
「用件だけ聞いて、さっさと帰すぞ」
笙を肩ごしに振り返って、念押しするように言った。
「あのばあさんが何を注文しようと、もう大した売り上げになんねえ。これ以上の恥の上塗りはごめんだ」
「拓海さん、そんな」
「分かったな?」
ぴしゃりと言いきり、拓海はフロアの中を足早に進んでいく。トメは空いているボックス席にちょこんと座り、テーブルの上に置かれていたメニュー表を手にしていたが、離れた席がやたら騒がしい事に気が付いたのか、視線はそちらの方へと向いていた。
「……あら、やだ。金城工業の奥様だわ」
トメが視線を向けている先では、紫雨と女社長がシャンパンタワーのてっぺんのグラスをゆっくり崩して、その中身をくいっと飲み干しているところだった。それをできるだけ視界に入れないようにしながら、拓海は笙と一緒にトメのいるボックス席へと腰を下ろした。
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