第90話

『Full Moon』閉店まで、あと二時間を切った。キャバ嬢達も帰ってしまい、次の指名も入っていない事から、拓海は更衣室のソファにうなだれるように座っていた。


 ボックス席では、いまだに紫雨が女社長と盛り上がっている。シャンパンタワーのコールが始まったから、また売り上げに差が出てしまっただろう。


 少し前に、太客の一人から返信メッセージが届いた。もしかしてと期待を込めて開いてみたが、それは拓海のメンタルをえぐるには充分すぎる内容だった。


『もう拓海を指名しないから』

『噂になってるけど、やっぱ経歴詐欺だったんだね』

『あの佐嶋グループの社長が弟さんとか、全然天涯孤独じゃないじゃん』

『そこがカッコいいと思ってたからボトル入れてたのに、だましてたなんて』

『大嘘つき、バイバイ』


 国内でも有名なアパレルメーカーの令嬢だった為に、あの女社長同様に扱いには気を付けていた太客だった。一度言い出したら絶対曲げない性分だったから、もう自分を指名しないというのも本当だろう。


 所詮は智広の妄言に過ぎないから決して口外はしないようにと、『Full Moon』のホストやスタッフ全員にはそう言っていたし、居合わせた客達にも知らぬ存ぜぬを通していたのに、やはり人の口に戸は立てられない。思っていた以上に噂は広まっているようだ。


 そして、これはあくまでも拓海自身の想像でしかないが、おそらくその噂を嬉々として流したのは……。


「くそっ!」


 手に持っていたスマホを、思いきり床に叩き付ける。画面にヒビが入ったかもしれないが、知った事か。それほどまでに、拓海の心は荒れていた。


「拓海さん……」


 スマホが床を滑って、更衣室のドアの方まで向かっていく。いつからそこに立っていたのか、笙がそのスマホをそっと拾い上げて拓海の側までやってきた。


「……いいのか? 紫雨のシャンパンタワーに付き合わなくて」


 笙に目を合わせる事なく、拓海が言った。


「今月のNo.1は、紫雨に確定だ。あいつについていた方が面倒なくていいぞ」

「人の事を犬扱いするようなホストを、俺はNo.1とか認めないんで」


 ふんっと鼻息を荒くしてそう言うと、笙は拓海の隣にどかりと座り込む。そして角の方が少しへこんでしまったものの、何とか画面は無事だったスマホを拓海の手に握り込ませながら「まだですよ!」と元気づけるように言った。


「まだ勝負は終わってません。諦めないで下さいッス!」

「バカか、お前。太客盗られた上に、閉店までもう時間がねえだろ。それでどうやって逆転できるってんだ」


 これ以上八つ当たりをしたくなくて、拓海はぐっと口を噤む。頭の中を占めていたのは、智広に対する苛立ちばかりだった。


 あいつのせいだ。あいつが現れてからというもの、もうろくな事がない。あいつが俺の目の前に現れたりしなければ、何も変わる事なく俺は――。


 そう思った時だった。


「……あ、トメばあちゃんからだ」


 拓海の横で、そんな間抜けな声が聞こえた。つい横を振り向いてみれば、自分のスマホを見つめている笙の姿がある。こいつ、まさかあのばあさんとも連絡先交換したのか?


「トメばあちゃん、あと五分で店に行きますって」


 そう言いながら、笙は手の中のスマホを揺らした。

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