第89話

「いらっしゃいませ、ようこそ美也子様」

「あら、拓海。ずいぶん久しぶりじゃないの」


 以前に好みだと言っていた甘い声色で挨拶すれば、女社長は口元に手を添えながらふふふっと笑った。確かに、智広が初めてこの店に来た日以来だから、もうひと月以上になるか。


「あなた、何日かお休みしてたそうじゃない。何かあって?」

「その節は申し訳ありません。少々トラブルがありましたもので」

「あら、そう。大変だったわねぇ」


 女社長は、舐めるように拓海を見つめる。心配するかのような言葉を放ってくるものの、そこに感情は全くこもっていない。その事に拓海は気付いたものの、今はそんな事を気に留めている場合ではないと頭の隅に追いやった。


「どうぞ、美也子様。お席の方までエスコート致します」


 そう言いながら、拓海は女社長に向かってそっと右手を差し伸ばす。昔から、この女社長はお姫様のような扱いを受ける事が好みで、拓海がその手を引いて一緒にホールを歩くだけで上機嫌になっていた。


 だが。


「ごめんねぇ、拓海」


 先ほどと同じく、全く感情のこもっていない声色で女社長が言った。


「今日はあなたに会いに来たんじゃないのよ」

「え……?」

「趣旨変えとでも言うべきかしら。あの子の方を気に入っちゃってね」


 女社長は伸ばしていた拓海の右手を通り過ぎると、奥のボックス席へと向かっていく。そしてずいぶんと甘え切った声で「お待たせ、紫雨~」と言った。


「ごめんね、仕事が長引いちゃった上に旦那がうるさくて。やっと黙らせてきたところなのよ」

「いいんですよ、美也子様。そりゃあ寂しかったけれど、そこまでして来て下さったあなたの顔を見たら、俺もう嬉しくて……」


 信じられない思いで拓海が振り返ってみれば、そこには自分の太客の肩に手を回し、色気を十二分に乗せた表情で見つめる紫雨がいた。


 そんな、嘘だろ。こいつ、いつの間に……!


 まさか、他の太客達も……!?


 呆然と立ち尽くしながら呆然とボックス席を見つめる拓海に気付いたのか、紫雨が女社長には気付かれないように、にやりと口の端に弧を描いた。


 いつまでも、あぐらをかけると思ってんじゃねえよ。あんたの太客、全部もらうから。


 声にならない紫雨の言葉が聞こえてきたような気がして、拓海はふらつきそうになる。


 それでも何とか耐える事ができたのは、席の方で待っているキャバ嬢達の「拓海、どうしたの~?」と言うのんきな声が聞こえてきたからだ。そうだ、今はあいつらをもてなさなければ……。


 焦燥感に支配されそうな心を何とか奮い立たせ、拓海はキャバ嬢達の元へと戻って行った。

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