第88話

数時間後、拓海は従業員用トイレの個室の中で焦りと苛立ちを隠せないでいた。


 今日一日、いつも通りの仕事をこなせさえすれば、紫雨の売り上げを超えて今月もNo.1の座を維持する事ができるというのに、そんな日に限って拓海の太客が一人として現れてくれないのだ。


 どの太客も、それぞれが大きな仕事や立場を持つ身だ。そう毎日のように足を運んでくれるはずがない事くらい、重々承知している。それでも、その中の一人や二人くらいは必ず来てくれていた。誰も来ないなんて、初めての事だった。


 少し前に、拓海は太客の一人一人に『これから店に来れない?』といった旨のLINEメッセージを送った。だが、『ごめん。今日は仕事で行けないの』と返信があったのはマシな方で、大半が既読無視をするという有様だ。


 どうなっているんだよと、拓海は整えていた頭髪をくしゃりと握りつぶすように掴んだ。


 早急に金が必要なんだ。先生にはいつまでも元気でいてほしいし、奥さんも安心させてやりたい。『太陽の里』の子供達にも、明るい将来を夢見てほしい。その為には、どうしても俺はNo.1で居続けなければいけないのに。


 どうする? 今来ているキャバ嬢達が入れてくれているボトルじゃ、いくら数を重ねたところで紫雨に追い付けない。だからといって、彼女達の支払い能力を遥かに上回る高級酒を無理強いさせるような真似など、できるはずがない。


 誰でもいい、誰か一人でも来てくれれば。そう思いながら、拓海がぐっと奥歯を噛みしめていた時だった。


「美也子様、いらっしゃいませ!」

「ようこそ『Full Moon』へ、美也子様!」


 トイレの中まで響き渡るような若いホスト達の歓迎の声に、拓海はぱっと顔を上げた。


 美也子様だ。正直、面倒なところが多々あるが、それでも自分の太客である事に変わりはない。もう彼女の豪遊ぶりにすがる他ない。

 

 拓海は急いで個室から出ると、鏡の前でぐしゃぐしゃにしてしまった自分の髪型を手早く直す。そして、先ほどよりもワイルドな感じに仕上げると、急いでトイレからホールへと飛び出した。


 見れば、いつものように派手な着飾り具合をした女社長が、スタッフの案内を受けてホールの中心を歩いているところであった。席の方で自分を待っているキャバ嬢達には申し訳なく思いながらも、拓海は足早に女社長の前に立ち、ゆっくりとした動作で頭を下げた。

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