第87話

「……給料の前借り?」


 開店前に行うミーティングにぎりぎり間に合ったほどの遅い時間に出勤してくる事自体が、彼には珍しい事だった。まだアルバイト感覚が抜けないような若いホストどもならともかく。


 それだけでも首をかしげる事なのに、ミーティングが終わっていざ開店という時に自分の後ろを勢いよくついてきて、「すみません、大事な話があるんですけど」と迫ってきた拓海の様子に、賢哉は少なからず慌てたものだ。


 おい、どうした。まさかよそから引き抜きがかかっていて、そっちに行きます的な話じゃないだろうな。今日ギリギリに来たのも、まさか……!?


 いい年をして冷静さを失いかけたが、慌てる賢哉を見て逆に冷静になった拓海が順序良く事の次第を話してくれた。どうしても、金が必要だと。


「どうか、この通りです」


 そう言って、深々と頭を下げてくる拓海に、賢哉は複雑な思いを抱いた。


 個人的な感情を最優先にするならば、もちろん惜しみなく協力して何でも言う通りにしてやりたい。だが……。


「ダメだ、それはできない」


 きっぱりと、そう言うしかなかった。


「お前がやらかすなんざ、これっぽっちも思ってねえよ? だが、前借りを許して金を渡したとたんにドロンしたホストもどきが今までどれだけいた?」

「……っ!」

「拓海、お前はうちのNo.1なんだ。皆の手本になるようなホストであるべきだと思わねえか?」

「……すみませんでした」


 賢哉の言う通りだと、拓海は恥ずかしい思いだった。


 そうだ。駆け出しのひよっ子ホストじゃあるまいし、給料の前借りなんてやっていい事じゃなかった。俺は、『Full Moon』No.1ホストの拓海なんだから――。


「おかげで、寝ぼけてた頭がしゃっきりしました。今日も頑張ります」

「いいなあ、その気合いの入れ方。たぶん今夜あたり紫雨を抜くだろうから、その時はたっぷりボーナスをつけてやる」

「え……」

「まあ、気張れよ?」


 そう言って、賢哉は意地悪に成功した子供のように、二カッと笑う。


 その言動の端々に見える賢哉の状の深さに感激した拓海は、深く頭を下げながら「ありがとうございます」を大声で言った。

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