第86話

仕事上で、大きなミスをした事など一度もない。父に代わって、何千人といる社員や傘下の者達の人生を支える立場になるのだと、二年前に覚悟を決めた。そして痛みに軋む体に鞭打って、ずっとこれまでやってきたというのに。


「佐嶋さん、どうかされましたか?」


 ふいにうなだれてしまった智広に、女医が静かに声をかける。智広はほんの少し間を開けた後で、「兄に」とつぶやくように言った。


「兄に、気が付かなかったんです。僕……」

「会えたんですか? よかったですね」

「ええ。でも、僕は」


 途中で言葉を切り、智広はますますうなだれた。


 この世で、最後に残ったただ一人の家族。今までの人生でずっと捜し求めていた最愛の兄を、見落としてしまった。それだけは、せめてそれだけはと、ずっと気を付けていたのに。


「最低な弟だ、僕は。ずっと頑張ってきた兄さんを、また一人ぼっちにするような仕打ちを……!」

「そんな事はありません、智広様」


 自分を責めるあまり、顔を上げられなくなってしまった智広の言葉をすぐさま否定した松永は、そのまま前に回り込むと、智広と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。


「大丈夫、拓海様は気が付いておりません。もし何か言ってきても、私の方でうまくごまかしておきます」

「ありがとう、松永。でも……」

「智広様は、何も悪くございません。悪いのは」


 そこまで言いかけたものの、松永はぐっと唇を噛みしめる。ギリギリのところで堪えたのだ。


 悪いのは、この俺です。責めるなら、どうか俺を。気が済むまで、ののしって下さい。


 智広が生まれたその瞬間から今日こんにちに至るまでずっと側にいたが、共に生きてきた時間の中で、どれほどこの言葉を言いそうになったか。どれだけこの言葉を叫んでしまいたいと思った事か。


 今だってそうだ、話してしまいたい。そうすれば、ほんのひと時の間だけだろうが、主人の心の重みを軽くしてやれる。あまりにも優しい彼が、自ら望んで抱え込んでしまった苦悩を少しでも消してやれるだろう。


 そんな思いを必死に噛み殺してから、松永は言った。


「悪いのは、智広様のお手を煩わせる役員どもです。何十年と佐嶋グループに仕えておきながら、提出してきたあの予算案は稚拙すぎます」

「ま、松永……?」

「今回の事は、奴らのせいです。二度とこんな失敗が起きないよう、今日の事もしっかりメモしておきましょう。どうぞ、智広様」


 松永は腕の中に抱えていた鞄から例の手帳とボールペンを素早く取り出し、智広に差し出す。わずかに逡巡していた智広だったが、すぐにこくんと頷いて、腕を伸ばしてきた。


「ありがとう、松永。僕、次に兄さんに会ったら絶対に謝る」

「では、その時の言い訳を一緒に考えましょう。大丈夫、きっとうまくいきます」

「うん」


 もう一度頷いてから、智広は手帳にいくつかの文章を書きこみ始めた。


『明日の僕へ』

『今日は、役員達に文句ばかり言われた』

『大沢物産の後頭部が残念な会長さんにも嫌味言われた』

『そのせいで、兄さんに気がつけなかった』

『とにもかくにも、兄さんに謝れ』

『絶対だぞ!』


 智広のその様子を、女医は静かに見守っていた。


 何かしらあれば、その都度手帳に書き込むようにとアドバイスをしたのは彼女だった。だが、ここのところ、その書き込む量と頻度が増えている。近いうちに検査が必要だと思いながら、女医はパソコン内にある智広のカルテデータを更新し始めた。

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