第85話
「……前回のカウンセリングから、一ヵ月。どうですか、その後の調子は?」
清潔感に溢れた白を基調とする診察室。その奥まった位置にある窓の向こうから吹いてくる風が、薄青色のカーテンをふわりとなびかせていく。目の前に座っている女医にそう問いかけられたにもかかわらず、智広はついそちらのほうに目が行ってしまい、少しばかり返事が遅れた。
「智広様」
ぼうっとした表情でカーテンを見つめ続けている智広を見かねて、背後に控えていた松永が声をかけながらその肩に手を置く。それに驚いたせいだろうが、智広は大げさなほど全身をびくりと震わせた。
「あ……」
「佐嶋さん、私の言葉が聞こえていますか? ここがどこか、理解できてますか?」
言葉そのものだけを捉えれば、相手を怒らせたかもしれないと委縮しがちだが、女医は特に機嫌を損ねた様子を見せずに淡々と聞いてくる。智広はその事に少しほっとしてから、ゆっくりと答え始めた。
「えっと……ここは、病院です。先生は、あの事故の時からずっと僕を担当してくれてます。今日は、月に一度のカウンセリングに来ています」
「はい、その通りです。お仕事の調子はどうですか?」
「そればかりは、子供の頃から厳しく鍛えてくれていた父に感謝するばかりです」
そう言って、智広は今日一日の出来事を静かに思い出した。
本当に、今日は神経をすり減らす一日だった。腹黒いだけならまだしも、昔気質で頭の固い役員連中への説得に思った以上の時間をかけさせられ、せっかく松永が苦心してまとめてくれていた意見書も、あまり意味がなさなかった。挙げ句の果てには、
『二代目はまだまだ経験が浅い上に、あの事故の後遺症の事もあります。今しばらく社長業はお休みして、おとなしくご療養なさってはどうですかな?』
役員の一人が口調に嫌味をたっぷりと上乗せしてそう言ってきた時、本当に腹が立った。その役員ではなく、他ならぬ自分自身に。
父のように強引で手段を選ばないような、汚い仕事はしない。自分が父から受け継ぐのは、あくまでどんな仕事でも必ず完遂させるという強い意志だ。だが、それが全く足りていないものだから、役員達にもああして舐められている――。
午後に出向いた大沢物産でもそうだった。新商品の視察をしに来たはずが、いつのまにか自分の経験不足をたしなめられるような説教の時間に変わっていたのだから。
自分が情けない、みっともない、この上なく恥ずかしい。
そんな嫌な感情が、ずっと頭の中をぐるぐる回っていたせいだろう。あろう事か智広は、この世で一番大事に思っている人を見落としてしまった。
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