第84話
つかつかとした足取りで病院の廊下を通り過ぎ、ロビーに出た。拓海の頭の中は、これから自分がどう立ち回ればいいかとその事ばかりでいっぱいだった。
先生が入院する以上、奥さんも病院に詰める事になるだろうから、実質『太陽の里』は空っぽになるも同然だ。いや、まだミチがいるんだから、子供達の日々の生活が今すぐどうこうなる事はないだろうが、それも長丁場となってくるといずれはいろんな面で限界が来る。
こんな事なら、ミチと同じように何かしらの資格を取っておくべきだったか。資金面の事ばかり考えすぎて、こういった事態に直面した時の事まで気が回らなかった自分の幼稚具合に腹が立った。
どうする、どうすればいい。どうやれば、何もかもがうまくいくんだ……!
焦りがどんどんいらだちへと変わっていき、そんな心持ちの中、病院入り口の自動ドアをくぐり抜けようとした時、すれ違いざまに入ってくる者をうまくかわせずに、互いの肩が強くぶつかり合った。
拓海はとっさに両足を強く踏み留める事で何とか耐えたが、もう一方はうまくできなかったようだ。無様なほどによろめき、腰からどすんと崩れ落ちる。その音を聞いて、拓海のいらだちは瞬く間に霧散した。
「す、すみませんっ。大丈夫ですか!?」
「……い、いえ。こちらこそ」
慌てて相手を抱き起こそうと両腕を伸ばしかけたが、聞こえてきたその声に動きが止まった。腰を落としていたのは、智広だったのだ。
「お前っ……」
「え?」
何でこんな所にいるんだと言いたかったが、半端な位置で腕を宙ぶらりんとさせている拓海をきょとんと見上げている智広の姿に、思わず声が出なくなった。何かしら、違和感があったのだ。
何だ? いつもだったら、「兄さん、兄さん!」と子供みたいにはしゃいで、うっとうしいほどに声をかけてくるくせに、何でそんな不思議そうに見上げてくるんだ? まるで、初めて会う赤の他人を見ているような……。
今度は違う意味で、どうしたものかと逡巡していた拓海の耳に、もう一人の聞き慣れた声が聞こえてきた。
「智広様、どうかされましたか!?」
病院に似つかわしくないバタバタとした足取りでこちらに近付いてくるのは、やはり松永だった。例のリムジンをどこかに停めていて遅くなったのか、一人で病院に入っていく主人を慌てて追ってきたというところだろう。
「何でもないよ松永、ちょっとぶつかっただけだ」
本当に何でもない事のようにそう言うと、智広はすくっと立ち上がって拓海を見る。そして、深々ときれいなお辞儀をしながら「大変失礼致しました」と詫びてきた。
「そちらもお怪我はなかったですか?」
「え、ああ……」
「後から何かあってはいけないので、もしもの時はここに連絡下さい。寝ている時以外はいつでも対応致しますので」
そう言うと、智広は胸元から小さな名刺入れを取り出し、その中に入っていた一枚を拓海に握らせる。そして「それじゃあ、僕はこれで」と言って、その場を離れた。
「お、おいっ……」
名刺を握ったまま、拓海は智広の背中に向かって声をかけようとしたが、それを松永が肩を押さえてきた事で止められた。
「悪いが急いでいる。話ならまた今度にしてくれ」
口早に言って、松永も智広の後を追っていく。拓海は少しの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「智広様、先ほどの方に見覚えはなかったのですか?」
エレベーターの中に乗り込んでいた主人を追って、松永がそう尋ねた。尋ねられた当の本人は不思議そうに「どうして?」と返した。
「拓海様だったのですよ」
「え……」
きっぱりとそう言い切った松永のその言葉に、智広はみるみるうちに顔色が悪くなっていった。
「嘘だ、そんな……」
智広は大きなショックを受けた。
あの時、あれが最愛の兄だったのだと分からなかったのだから――。
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