第81話
「……本日のスケジュールをお伝えします。午前九時半より、佐嶋グループビル十一階会議室において、役員の皆様との定例会議。議題は来年より取りかかる新事業における予算案についてです。これは午前中に終えられるよう、あらかじめ役員の皆様に意見書をまとめていただいております。ここまでは大丈夫でしょうか?」
翌日の早朝。佐嶋家のダイニングにおいて、いつものぴしりとした身なりの松永が淡々と言葉を連ねている。彼のすぐ目の前にあるテーブルの席に腰を落としている智広は、左手でバスケットかごに収まっていたクロワッサンを掴み取り、残った右手は例の手帳を忙しなく広げていた。
「うん、大丈夫。ちゃんと覚えてるよ。でも、午後は何だったっけ?」
「昼食を終えられた後は、大沢物産の会長様とのお約束がございます。今年の目玉となる新商品の視察をしてほしいとの事です」
「……えっと」
「後頭部がやや残念になりつつある方で、首筋に大きなほくろがあります」
「ああ、そうそう。昔会った事ある! あの頃も残念だったよね」
あははと屈託なく笑ってから、今度は新鮮な牛乳の入ったグラスをぐいっと
「こちらも午後五時までには終了となるよう、会長様にはお願いしてあります。ですが、夕食を是非にと言われてもおりますが」
「うん、それはお断りしておいてよ」
松永の言葉を途中で遮り、智広が振り返る。相変わらず、いい笑顔を浮かべていた。
「アフター5は、兄さんと過ごすんだ。ねえ、兄さんのお店に行ってもいいよね松永?」
「……」
「松永?」
「お言葉ですが、智広様。本日はおやめになられた方がよろしいかと」
「え、何で? だって、僕はまだ兄さんに」
智広のせっかくの笑みがけげんな表情に変わっていくのを、松永は口惜しい思いで見つめていた。「まだ兄さんに」その続きを、この青年はどう口にするつもりなのか。
「腹黒い連中との会合が重なるのです。いくら
決して続きを言わすまいと、松永は一歩前に踏み出しながら、少しまくし立てるようにして言った。
「そんなお姿で、せっかくの兄君との出会いを台無しにするには、あまりにももったいなく感じませんか? お医者様とも相談し、揺るぎない万全の体勢と用意を伴うべきかと」
「……そうか、そうだよね。ありがとう、松永」
あまりに突飛で稚拙な意見でも、松永の口からなら安心して聞けるのか、智広は納得して頷く。そして左手の中のクロワッサンをパクッと頬張った。
「じゃあ、また明日。明日なら、大丈夫でしょ?」
「はい。詳しいスケジュールは、また明日お伝えします」
「楽しみだな、兄さんに会うの。苦労されてきた分、きっと素晴らしい人になっていると思うんだ」
理想の姿を想像でもしたのか、智広が照れたように笑う。ふとテーブルに目をやると、トメがサラダ代わりとして出してくれていたサーモンのカルパッチョがまだ手付かずだった。
「智広様。カルパッチョはまだお召し上がりにならないのですか?」
ほんの十分ほど前。トメが『Full Moon』からお土産をもらってきたと言って皿に盛り付け直してくれたそれを、智広は目を輝かせて見つめていた。なのに。
「あ、いけない。ねえトメさん、いつの間にレパートリー増やしたの? おいしそうなカルパッチョだね」
キッチンの奥にいるトメに向かって、そう声をかける智広。それを聞いて、また松永は口惜しくなった。
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