第80話

「拓海ぼっちゃま、年寄りのわがままを聞いて下さりありがとうございます。これは棺桶の中まで持っていきますからね。笙様も、素敵なお土産ありがとうございました」


 トメはコース時間いっぱいまで『Full Moon』に居座ったものの、結局口にしたのは最初に注文した烏龍茶のみで、拓海がサービスにと注文したフルーツやカルパッチョは、たまたま笙が持ってきていたタッパーに詰めて持ち帰らせる事になった。


 ビルの外まで見送りに出てくれた拓海と笙に向かって、雑誌とタッパーの入った布袋を抱えたトメが深々と頭を下げる。彼女の背後には、先ほど笙が手配したタクシーが停まっていた。


「いいんだよ、トメばあちゃん。この間の唐揚げのお礼なんだから、遠慮なく食ってくれよ。うちのカルパッチョはマジでうまいから♪」


 故郷の祖母を思い出すのか、笙が甘えるような口調でトメに手を振っている。その横で、わずかに視線を逸らしながら拓海は小さくため息をついていた。


 あいつといい、あのおっさんといい、佐嶋家の連中はヒマ人しかいないのか? こう何度も出てこられると、もうたまったもんじゃない。ここらで一発、びしっと言うべきか。


 拓海がそんな事を思った時だった。


「拓海ぼっちゃま。もし、よろしければでございますが」


 名前を呼ばれて、ちらりと窺い見てみれば、タクシーの後部座席にゆっくりと乗り込んだトメが首を伸ばして拓海を窺っていた。「……何だよ」とわざと不機嫌そうに応えてみると、トメはほんのわずかに目を細めてから続きを言った。


「どうか、ほんの少しだけでいいのです。智広ぼっちゃまに優しくしてやって下さいな」

「……」

「そして、一度で構いません。どうか、お名前を呼んであげて下さいませ」

「……」

「そんな優しい思い出さえあれば、きっと智広ぼっちゃまは強く生きていけると思いますので」


 どうか、後生でございます。トメのそのひと言を最後に、タクシーはドアをばたりと閉め、まだ暗い夜の街の中に消えていった。


 あくまでホストとして『Full Moon』のマニュアルに従い、タクシーが見えなくなるまで頭を下げて見送った。そんな拓海に、笙はちらりと横目で見ながら言った。


「何でトメばあちゃんに返事しなかったんすか?」


 不思議そうな、それでいてどこか不満げに尋ねてきた笙の質問に、拓海は淡々と答えた。


「必要がないからな」

「え?」

「あいつ、もう充分強いだろ」


 いや、あいつの場合は図太いと言い直した方がいいか?


 さすがにその言葉は喉の奥まで押し込み、拓海は『Full Moon』へと戻って行った。

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