第79話
「……初めまして、拓海です。今宵はようこそ『Full Moon』へ。お待たせして、本当に申し訳」
「まあ、拓海ぼっちゃま! 何て麗しいお姿なんでしょう!」
新規の客には最大限の礼節を持って、ていねいに挨拶をした後、跪きながら自分の名刺を差し出すのが拓海のやり方だ。だが、その一連の流れを、フロア中に響き渡るほどの大声がものの見事にぶった切った。しかも、ついこの間聞いたばかりの声が。
「は……?」
思わずばっと頭を上げてみれば、ソファにちょこんと座っているのは佐嶋家の豪邸にいた家政婦の老婆だった。薄緑色に染め上がった上物そうな小袖の着物がよく似合っていて、ニコニコと拓海を見て笑っている。ガラスのテーブルの上に乗っていたのは、烏龍茶だけだった。
「智広ぼっちゃまからお話を伺って、一度来てみたいと思っておりました。ホストクラブだなんて破廉恥な場とばかり考えておりましたが、皆さんこんな年寄りにも優しい方ばかりで、トメは恐縮しております」
「あ、あんたなぁ……!」
思わず大声で返したくなったが、前科というものがある以上、もう賢哉に迷惑をかけたくない。今、目の前にいるのは確かに客なのだからと、気を取り直して拓海はトメの隣に座った。
「お待たせしましたお詫びに、俺からサービスさせていただきます。カルパッチョはお好きですか?」
「まあ、お気になさらず。拓海ぼっちゃまにお金を出させるわけにはまいりません」
「……いや、そこは素直に受け取れよ。大体、飲み放題コースにしといて、何で烏龍茶一杯しか飲んでないんだよ」
「トメは日本茶しか口にした事ないので、洋モノは何も分かりません」
そう言って、トメはちょこんと首をかしげながら烏龍茶の入ったグラスの横に置きっぱなしのメニュー表を指差す。洋モノって……全部日本語で書いてるだろうがと、拓海は頭が痛くなった。
「もうすぐフルーツとカルパッチョが来るから、それ食べたら帰れよ」
「あら、そうはいきません。先日、トメは大事な事を言うのを忘れてましたので」
とても真剣な口調だった。思わず全身が固くなり、拓海はトメを見つめた。
もしかして、あいつに何か……と息を飲む拓海としばらく目を合わせていた後、トメは小袖に合わせるにしてはずいぶんと大きな布袋を傍らから引っ張り出し、その中身を取り出してきた。そして。
「こちらの方に、拓海ぼっちゃまのサインをお願いできませんでしょうか?」
そう言いながら差し出されてきた物を見て、拓海は瞬時に智広の言葉を思い出した。
『家政婦さんがたまたま持っていたのを見かけたんだ。あ、その人はトメさんっていうんだけど、彼女には本当に感謝しなくちゃ』
トメの両手によって開かれた雑誌のページには、上半身裸の拓海のグラビアがある。その様子が見えたのか、隣のテーブルにいた紫雨から声をかけられた。
「拓海さん、ストライクゾーン広すぎでしょ」
拓海は少し顔を赤らめて、紫雨をにらみつけた。
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