第63話

拓海が智広のスマホで連絡を取ってから、およそ十五分後。『Full Moon』の入り口ドアの前に、ずいぶんと汗だくになった松永がやってきた。


 よほどあちらこちらを走り回って主人を捜していたのか、いつもはぴしりと着こなしているスーツはかなり着崩れ、シワが寄っている。その上、先ほどの智広と同じかそれ以上に、ぜいぜいとひどい息切れも起こしていた。


 今すぐ智広の安否を確かめるべく『Full Moon』の中に飛び込んでいきたかったが、松永の両足が止まったのは、入り口ドアの前に拓海が寄りかかるようにして立っていたからだ。その手には、見覚えのあるスマホもある。


「ち、智広様は……」


 何とか呼吸を落ち着かせながら尋ねてくる松永に、拓海は答えた。


「ひどく酔いが回ってるけど、その分吐かせたから、とりあえずはもう大丈夫だ」

「そうか。なら、もう連れて帰っていいな?」

「その前に、うちのホスト相手に何するつもりだよ」


 拓海の視線は、ぎゅうっと強く握りしめられている松永の両手のこぶしに向けられていた。あの痛烈なパンチを思い出したせいか、ガーゼを貼ったままの頬がまた痛んだような気さえする。


「苦情なら、また今度にしとけ。今日は賢哉さんもいないし、これ以上のゴタゴタはもう処理しきれねえんだよ」

「ふざけるな。人のいい智広様をオモチャにして……。あの方がどれほど重要な方なのか、貴様らは理解すらできんのか」

「こっちに何の落ち度もないなんて言わねえよ。でもな、だったら何で目を離した? あいつがここに来る事くらい、あんたなら想定できただろ」


 おかしいとは、思っていた。


 これだけしつこく何度も拓海の前に現れる智広の側に、松永はずっと付き従ってきた。仮に、本当にどこかで撒かれたとしても、ここ最近の智広の行動パターンをかんがみれば、『Full Moon』を真っ先に思い付くはずなのに。


 そう考えて聞いてみたが、そんな拓海の言葉に松永はこう反論した。


「別の可能性もあった」

「は?」

「訳が分からなくなり、どこか知らない場所に行ってしまわれる可能性もあった。だから、街じゅうを捜して遅くなった」

「何言ってるんだ、迷子になるような年かよあいつ」

「そうなる事もあるから、言っているんだ」


 だから、感謝する。


 そう言いながら、松永は深く頭を下げる。その際、少し小さく声のボリュームを落として「その頬も、すまなかった」とも言ってきた。


「え……」

「痛かっただろう。さすがにやりすぎた、すまない」


 絶対に嫌だとか言っていたから、まさか謝ってくるとは思わなかった。拓海はとっさに返事ができなかったし、松永もそれを期待していた訳でもなかったのか、ゆっくりと頭を上げると一歩前に踏み出した。


「智広様を連れて帰る。ホスト達には何もしないから、中に入れてくれ」

「……分かった」


 拓海が体をずらして道を譲ると、松永はまっすぐ前を見据えながら、フロアから漏れてくるBGM越しの入り口ドアをくぐっていく。その背中を追いかけるようにして、拓海も中に入っていった。

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